2015年7月28日火曜日

今日の想い 867(原爆記念日)

この7月もあっという間に過ぎ去っていく。そしてまた8月6日の原爆記念日がやってくる。今日までの人類歴史の中で、これほどの瞬間的な人為的殺戮は類を見ないだろう。犠牲になった20万の魂は、棲家の肉体を奪われ、暫くその行き場所を見つけられずに地上をさまよっていた。身に降りかかったこの運命の意味を納得できなければさまよい続けるしかない。起こったことが人為的であれ自然的であれ結果に対する原因があるわけだが、人間が外的科学的原因を問うのではなくその運命の原因を問うのは内的霊的存在として当然のことだ。蕩減法によるなら身に降りかかった結果の原因は自分の中に見出せるだろう。しかし、愛する者を苦しめられ奪われた近親や被害者本人にしてみれば、蕩減原則によってこうなると、自分で見出すのでなく運命の支配者に告げられるなら、それは断罪されることであり、そこに愛の神も慈愛の仏も見いだせなくなってしまう。しかし犠牲になった者達がその恨みを膨らませて悪霊になるわけではなく、事実は自分の犠牲をしてどのように人類の救いや幸福に貢献できるかを模索するようになる。これこそが人間が運命の裁き主の支配を超えて、自分という存在は神様からきた存在であることを証している。運命の結果にどれほど抗おうとも、否定しようとも、後ろ向きの意志のベクトルではますます自分を悪魔の手に委ねることになるが、私の霊と魂の昇華はより全体の為に、より未来の為に、如何に貢献できるかという前向きの意志のベクトルによってなされる。犠牲者への追悼にはその配慮が必要であり、苦しかろう悲しかろうではますます彼らを地獄へと貶めることになってしまう。私はあの平和記念館が大嫌いだ。冷たいコンクリート打ちっ放しの建物もそうだし、足を踏み入れればホラー紛いのマネキンやおぞましい写真が陳列されていて、恰も彼らを地獄に閉じ込めて囲っているようで犠牲者に対する何の敬意も感じられない。愛によって平和を築こうとするのではなく、恐怖と不安によって平和を築こうとしている。それは平和とは名ばかりの偽りの平和だ。死んでしまってその存在を無にした唯物的見地のみで展示されている。犠牲者を慰労しているようで実のところ彼らをとことん貶めている。地上ではピカドンで肉体を溶かしたけれども、天上ではその犠牲的精神となって光を放つ存在になっている。彼らの放つ光が核の抑止へ、平和への意志へとなって働いている。私が復帰された当初の広島教会は原爆ドームの近くの正に爆心地に建っていた。確かに当時は様々な悪霊現象も起こったし、ただならぬ圧迫感から犠牲者達の恨みを感じ取ることもできた。しかしたまに帰省して訪れる今の広島の町は実に明るい。光り輝いている。蕩減的穴埋め感情から責任分担的創造感情を肌に受け取る。

2015年7月22日水曜日

今日の想い 866(一体とは)

一体であられる御父母様からすると、御子女様達をどう見ておられるのだろうか。反旗を立てたり、御母様を批判されたり、普通の認識からすれば異常に思える。御家庭に於いてひとつになることを示されねばならないのに、ひとつになるのではなく逆に離れている。御父様の一体という概念と、私達の描く一体という概念が180度異なるのだろうかと、今の御家庭の現状に蓋をして当たらず触らず無視してそれでも一体を言い続けるのかと、御は誤であったと早々に決着をつけて信仰を捨てるのかなど、私達の内面に於ける葛藤はかつて無いほど激しさを増している。御父母様に対して御子女様達がそうであるように祝福二世達も一筋縄ではいかず、親としてどう捉えて対処したらいいのか、教育の失敗なのか親の条件の無さや不信仰からくるものなのか、一体圏という言葉に溜息が出て虚しさを覚えるほどに内面は焦燥しきっている。私達は一体という言葉を意志の言葉として捉え直さなければ、落とし穴を益々深くして身動きが取れなくなる。私自身も相当に悩んだ。今現在も悩み続けている。み言葉によって救われた喜びと感謝が大きければ大きいほどに、子供のみ言葉離れは親の地獄だ。天国に行くつもりが生きて地獄に落ちている。御父母様が御子女様達をどう見ておられるかと私達が祝福子女達をどう見ているかは異なるにしても、親の思うようにはいかない現状はどちらも同じ状態としてリンクしている。一体という言葉を意志の言葉として捉え直すとしたが、御父様が一体という言葉を使われるときその言葉に裏付けられている心情を見なければ、御父様と同じ概念とはならない。一体という言葉に隠されている神様の心情、恨を見るということだ。父子一体とはかけ離れ、堕落して手の届かないところに行ってしまった耐え難い心痛を見るということだ。一体という言葉をイメージとして知で捉える限りは一体になっていないことへの裁きが襲い掛かるが、意志として捉えると神様の耐え難い心痛を同じ親という位置で味わい、一体への道を神様と模索していく、神と共に歩む自分を見出せる。長男の御子女様はあれほどにハチャメチャな生活をされながら、しかしその晩年はというと内面に於いて誰よりも御父母様を思われ、愛され、御父母様の心情を汲まれている。霊界では天国の門を主管する位置におられるほどで、それは犯した外的罪で裁かれるのが霊界ではなく、霊界は培った心情世界であることの証だ。おそらく子女は親の信仰観や世界観を超えたところにいて親からは理解できない。親の器では測れない観を担って生まれ出でたのかもしれない。またそうでなければ天地の発展と更なる創造はないのだろう。自分自身を裁きの目で見るのでもなく、子供を裁きの目で見るのでもなく、そこに味わうべき心情があり、気付くべき心情があり、天からの心情相続、そして子女達への心情相続それこそが一体圏だ。そしておそらく御子女様達も御父母様の理解を超えている。しかし御母様は子供達の帰ってくるのを信じておられる。理解を超えているけれどもそれでもただただ信じておられる。とても一体とはいえない現状をして御父母様への信仰を揺らすのではなく、真の愛でもって、犠牲的愛でもって家庭一体圏への道を歩まれる並々ならぬ御母様の意志を見て、私達は御父母様への信仰をさらに強固にすべきだろう。御父様の一体という言葉は、ひとつになろうとする強固な意志に貫かれた言葉であって、仲のよい家族爛漫のイメージを描かせて一体という言葉を口にしてはおられない。

2015年7月21日火曜日

今日の想い 865

一日一日が飛ぶように去っていく。遅れをとるまいと遮二無二に付いていこうとするけれども、去っていく日々を数えるので精一杯の状態だ。あらゆるものが変革されていく。関心のある事柄にのみ意識が釘付けられていると、天地一体圏に合わせるように変革される世界を見届けることはできない。そして消えゆく世界から新しく現れる世界へと、それに合わせて自分も変革されるべきなのに、消えゆく世界に足場を置き続けている。先天のその世界の消失と共に、そこに足場を置いていた自分も消え失せていく。御父母様が開いてくださった新しい後天開闢時代は、天が主管する全く新しい世界だ。そこは天が主管する時間が流れ、天が主管する空間が広がり、天の意識としての新しい光が満ちている。新しい天地の到来は新しい神様としての「天の父母様」の到来とも言える。先天の堕落圏に柵(しがらみ)を持つ旧来の世界認識は通用しなくなる。その認識からすれば全てが破壊されていくかのように見えるけれども、実は変革している。天地一体圏の後天時代にふさわしい存在に昇華(アセンション)していく。食口であっても同じことだ。信じていたものが悉く壊されていく。培ってきた基盤、それが信仰基台のようであれ実体基台のようであれ、内外の土台が全て崩れ去っていく事態に直面する。しかし後天開闢の新しい意識からすればそれは壊されていくのではなく新しい世界の孵化が始まっている。いろんな問題が生じ、そこに責任を責任者に追求してみたり、旧来の世界認識、既に寸法の合わない秤で善悪判断をしたりと焦っているけれども、天暦の暦(こよみ)でもって後天時代の時代精神に合わせなければならないように、新しい意識の光による新しい認識で物事をみなければならない。私達は地上という胎の大きな変動を経験している。そして堕落圏であった地上から天の父母が主管する本然の地上天国が創出される。堕落圏に住んでいた者達は、意識の産道を潜り抜けなければ新しい世界を見ることはない。その先導役は御父母様であり、御父母様の分霊を頂く神宗族メシヤ達だ。私達は個人の救いを標榜する為に導かれたのではなく、氏族の救い、民族の救いを買って出たものたちだ。その使命を真摯に受け取り、成就させると決意覚悟するならば必然的に御父母様に従わざるを得ない。御母様がおかしいだの、協会幹部達の汚職だの、もしそんな問題が解決されれば氏族復帰が大きく進み、氏族を引き連れて地上天国への産道を抜けることができるというならその追求を勝手にすればいい。しかしそういう者達は霊界がわかっていない。救いの何たるかがわかっていない。今の時がわかっていない。好き放題言葉を駆使して批判して、そんなのは道楽に過ぎない。絶対信仰ではなく道楽信仰だ。

2015年7月20日月曜日

今日の想い 864

全ての存在は相対的関係で存在している。霊界は主体であるけれども地上世界との主体対象関係で存在しているのであって、霊界を創造されてそれから地上世界を創造されたのではなく、霊界と地上界を対で創造された。表を作れば裏ができるように、霊界を創造するということは対象としての地上界を創造するということだ。真の父母という言葉も真の父が立つためには一方で真の母を立てることは必然であり、真の父として立ち、それからおもむろに真の母を立てるということは存在定義として原理上矛盾している。真の父は勝利されて完成完結完了されたけれども真の母は失敗する可能性、否、失敗されたことを訴えておられるが、真の父母は対であって片方が勝利されて片方は未だ勝利の途上にあるなどと言う言い方も矛盾している。御父様を愛しておられるように御母様を愛しておられることは重々承知しているけれども、御父母様一体を否定されるのはどうかと思う。三男の御子女様がそうであるように、七男の御子女様の問題もカインの子女としての祝福家庭がその責任を全うしていないことが現実の背景にある。カインの立場でアベルの立場である御子女様達を一方的に非難するのはカインアベルの原則を否定して悪魔の片棒を担いでいることと同じだ。では言い分の異なるそれぞれの御方に付いてしまえばカインアベル一体かというとそれも違う。あくまで御父母様の願いを中心として一体になるべきは当然だろう。真の愛が関係性に関与する為には、地上人間が先天的な愛の秤では首を傾げるような現実が起こり得る。事実起こっていて、食口ですらそこに真の愛の関与、すなわち天の関与が関係しているなどとは到底思えないだろう。御父様が聖和されて、全てが混乱し全てが破壊されていると思っている。もちろんこの状況で何の心配もないと、能天気に過ごすことが食口のあるべき姿勢だとも思わないが、御父母様の勝利圏に対して疑いを抱くような姿勢では立つものも立たず働くものも働かない。御父様の勝利は御母様によるのであり、御母様の勝利は御父様の勝利によるもので、その一体圏を否定すれば重生祝福などあり得ない。祝福家庭などあり得ない。御子女様ですらあり得ない。

2015年7月19日日曜日

今日の想い 863

日本は安保法案を巡って長く塞いでいた腫れ物にでも触るかのような態度を示し、国民皆が感情的になっていて議論の余地すらないようだ。左傾化してしまったメディアが焚き付けるからだとばかり思っていたが、意外とそれだけでもないらしいことがわかってきた。軍隊だとか兵器だとかのみならず、戦争を連想させる言葉は悉く忌み嫌っている。阿部首相が国民の理解を得ているとは言いがたいと吐露しているが、今日本国民が安全保障の議論ができる状態には全くなく、悲観的イメージばかりを膨らませるだけ膨らませて、安保トラウマ、戦争トラウマという病に、正確にいうと安保関連の言葉へのトラウマであり戦争関連の言葉へのトラウマに日本国民全体が侵されている。国民当事者からすればその異常さを正常だと思い込んでいるようだが、他の国からすれば全く理解できない日本人の姿がそこにある。自国を守る為に必要な外的武装、その為の安保教育という内的な武装も必要だが、敢えて構えるかの如くに服を着こなす必要はなく、最初から裸であれば挑発することもないと信じきっている。裸だから今まで平和に暮らしてこれたのだと信じきっている。これを洗脳と言わずに何と言うのだろう。洗脳されて魂を抜き取られている。日本人に備わっていた大和魂を再び取り戻すにはショック療法しかないということなのだろうか。日本は他国を侵略した侵略したと、気が滅入って魂が抜き取られるほどに自国民を苛め抜いてきたが、逆に侵略されて恨を覚えてやっと大和魂として奮い立つのだろうか。今の日本に魂と呼べる精神的支柱は立っていない。飼い殺しに慣れてしまって自分の主体的意志もなく、まわりに合わせて主張する色合いをなくした受動的家畜国民では国の形は定まらない。国の輪郭への認識もない。竹島が占拠されても感知せず、尖閣の周囲を中国船が堂々と旋回しても感知せず、もはや北方領土への関心すらない。これでは御父様が予知されたように、日本が5つに分けられて占領されても不思議ではないのかも知れない。主体的能動的でなければ精神的支柱は立たない。それは私達日本食口に対しても同じことが言える。対象的受動的な信仰観から主体的能動的信仰観に脱皮しなければ裸のままで、いつ何時食われてもおかしくない。

2015年7月15日水曜日

今日の想い 862

東の果てにある一人の男性と、西の果てにある一人の女性が、一体となるということは並大抵のことではないだろう。体の凹凸は簡単に埋められて肉体的には一体になれるとしても、内的な凹凸を一つにしようと思えば大変な精神的作業がお互い必要になってくる。それでも忍耐しながら、許して愛しながら、夫婦として添い遂げるとすれば、目には見えない内的凹凸の一体圏、神様から見れば陰陽授受作用の存在様相として、次元を上げた存在として、神様の新たな一つの対象存在になる。神様と私という主体対象関係から、神様と一体夫婦という主体対象関係になる。そうなると神様も私個人の主体と同じ主体ではなく、位相を上げられた神様という主体になられる。一体夫婦の主体として立たれる神様は、天の父母様としての主体だ。一体夫婦にならない限りは天の父母様という概念は個人の中にはない。神様が天の父母様になられれば一なる御方が二なる御方になられるのかというと、一体夫婦で一つであるように天の父母様で一なる存在様相だ。神様が結婚される、という誰も思いもしない驚嘆する概念をどう理解したらいいのかということだが、御父母様一体圏を勝利されて、それゆえに夜の神様から、今日までの人類歴史を通して秘密にしておられた神様の結婚という内容を示されたはずで、或いは既に知っておられたけれども勝利されるまで私達に伝えられなかったはずで、私達が一体夫婦を標榜して氏族圏へと展開するとき、氏族として一体である家庭達の中心は御父様よりは御父母様となる。御父母様の中に天の父母様が認識できる。、、はずだ。よって神様の結婚、天の父母様という概念は、個人から家庭ではなく家庭から氏族という氏族復帰を念頭に置いて成り立つ概念だ。個人の救いの神様は家庭を立てる、家庭の為に犠牲になるという過程で個人を救われるのであり、家庭の救いの天の父母様は氏族を立てる、氏族の為に家庭が犠牲になるという過程で家庭を救われる。

2015年7月13日月曜日

一なる唯一神と二なる二性性相の神様

「唯一神が存在する」という言葉と、「存在は授受作用による」という言葉は平面的に見れば矛盾している。なぜなら存在が授受によるなら、存在には主体対象という二つの概念が既に含まれているからだ。唯一神の存在は本性相と本形状の授受作用によっている。一なる存在と存在するための二つの概念が矛盾しないのは次元を超えた見地に立っているからだ。次元を違えて、すなわち平面的ではなく立体的に捉えることで2が1になり1が2になるという理解は当然のことだ。原理と御父様のみ言葉が矛盾すると感じるのは、異なる次元について語られているからであり、霊的無知状態にある私達の限界がそこにある。無知である自分を棚に上げて、平面的尺度で原理と御父様のみ言葉の矛盾、さらには御父様の言質とそれに対する御母様の反逆的言動、などは平面的にしか捉えられない私達の理解の限界を晒している。唯一神と天の父母様をどう捉えるか、黒表紙と赤表紙をどう捉えるか、真の家庭の理想と御家庭の現実をどう捉えるか、全ては私達が平面的次元に留まる限りは理解できず、御父母様の願いに対して背を向けてしまう食口が多くなる。反対派もいて分派もたくさんいて、御子女様それぞれに旗を掲げる。そう捉えてしまう次元を糾合できる新たな次元に立たない限り、正分合が正反になり、合が正しく合になり得ないだろう。今の現状を見て反ではなく分だったと近い未来に言えるとすれば、そこに心情の働きが必ずあるはずだ。アベルとカインが一体化するのも、夫婦が一体化するのも、そこに一つになって欲しいと願う心情を見出さなければ分離した分ではなく相反した反になる。そうなると堕落したという事実を認めるなら、唯一の創造神が地上世界を創造してそれで創造理想が完遂された訳ではないということは理解できるし、創造神たらしめた心情が創造神の次元を超えてあり、その心情を中心として創造理想が完遂されると理解できるのではないだろうか。その心情の起点が夜の神様であり、そして創造神は昼の神様という概念が成り立つ。



2015年7月8日水曜日

今日の想い 861(基元節を超えて)

基元節は真の父母様の天一国即位聖婚と私達の天一国入籍祝福が為され、実体的天一国始動として天宙史に刻まれた天歴1月13日を言う。この日に地上天上天一国が開門された。あの基元節は一体何だったのかと未だに不信し疑惑を持つようであれば、その不信と疑惑で今までの歩みを穿った見方で、あるいは現実を穿った見方で判断してしまう。そうなると天一国に仮にも入籍を許されながら、しかしその門から出て離れてしまうという愚行を働いてしまう。もちろん氏族メシヤとして勝利した訳ではないから、門の辺りを出たり入ったりしているような状態で定着地を持つに至ってはいないが、それでも不信と疑惑で踵を返して遠ざかっていくよりはましだろう。この地上のどこに天一国があるのかと、国もないのに開門が聞いて呆れると、しかしみ言葉を正しく受け入れた者は天一国への正しいイメージを持ち、それは御父様の描かれるイメージから来ていて、御父母様との一体圏の核に近づけば近づくほどその実体的天一国イメージは輪郭を明瞭にしていく。現実化はしていなくても地上天国天一国の実体化はされていて、それを否定するならイエス様の霊的勝利圏による霊的御国と変わりないということになる。私達は基元節以降天一国生活、地上天国生活に既に入っている。いまだ堕落性も抜け切れず堕落観念に浸っているから、意識改革の途上であって先天時代と変わらない認識でいるが、認識の程度に拘わらずそれでも御父母様を中心として天国生活をしている。地上では御母様との心情的距離がその認識を深め、地上から見る霊界では御父様との心情的距離が霊的認識を深めていく。認識は後から付いてくるものであって、認識を問うて天国なのかどうかを見るのではなく、私の意識が御父母様の住まわれる天国生活から発せられたものなのかどうかを問わなければならない。先天の地上生活から発せられていた私の意識のままであっては新しい革袋を用意しているとは言えない。御父母様の意識と私の意識がリンクしなければ天国生活を認識できない。私の意識が変わればあらゆる出来事の中に既に堕落世界の側面とは異なる地上天国と関連する側面が見えてくる。自分の目が御父様の目だと思って見る。自分の耳が御父様の耳だと思って聞く。自分の手が御父様の手だと思って触れてみる。自分の思考が御父様の思考だと思って考えてみる。自分の感情が御父様の感情だと思って味わってみる。そうすると見えなかったものが見えてくる。聞こえなかった声が聞こえてくる。御父様が私の体や心を使って生きて働かれる。御父母様と常に共にあればこの地上世界は天国に違いない。






2015年7月4日土曜日

今日の想い 860

連邦最高裁は同性婚を認めてしまった。これによってまだ認めていなかった13州も認めざるを得なくなった。共に歩む兄弟は当然の如く判決への批判に泡を飛ばす。み言葉では同性愛を認めていないので批判を口にするのは当たり前のことだが、批判を口にするだけで彼らが救われる訳ではない。彼らが救いの圏外にあるなら批判という一方通行でいいのかも知れないが、彼らとて私達と同じように救われて祝福を受ける人類に含まれているなら、批判を口にするだけでは天の願いに応えていることにはならない。一つには彼らが好きで同性愛者となっているのかというとそうではなく、生まれながらにしてそうなっていたという場合が多い。生まれながらにということは宿命である可能性が大きいということだ。私が男であることが宿命であるように、男であるのに男に惹かれてしまい、女であるのに女に惹かれてしまうように生まれついたことも宿命とは言えないだろうか。だからと言って同性婚を認めている訳ではないが、ただの批判に終始する限りはみ旨の願いに応えているとは言えない。御父様が少し触れられたのは、血筋の過去の近親相姦が原因となって同性愛者が出てくると言われたことがある。その蕩減原則がどのように働いてのことなのか定かではないが、父と娘、母と息子という関係性には既に縦的一体圏にありながらも、敢えてそれを分離させて陽と陰という横的相対圏に無理して立たせるという暴挙は創造原理への挑戦であり、それが同性愛という血統の崩壊という創造破壊を誘発させるものとなって子孫に表れるのではないかと仮定できるが、よくはわからない。本来反発しあう陽と陽、陰と陰の性であるのに求めるのは不自然であり異様であるが、特筆すべきは彼らが知的である場合実に知性に溢れ、情的である場合実に情に溢れているということだ。知的な意味でも情的な意味でも補佐役とすれば完璧だ。その気のある従業員がいたが客からの好感度は抜群だった。私を支えてくれて彼女に天使を見る思いがした。御父様は以前、天使には相対がおらずやがては相対として与えなければならないと話されたことがある。天使は霊的存在であり、御父様が神様の相対を地上から用意されたように天使の相対も地上から用意されるのではないかと思ったことがあり、私にはひょっとしたら、、という彼等に対する感覚があって、その感覚は今でも否定できない。それでも同性婚の国の認可は決して認められるものではなく、その感覚をしても天使を認める以前に人間の位相を否定することになりかねない。

今日の想い 859

御父様の口からみ言葉が溢れ出るのは、み言葉が生きて活動している次元におられるが故だ。三次元世界の世界観では見通せない、まさに高次元、更に多次元にまたがり自由に往来しておられる。霊界に上られた御父様だが、私が死なずとも生きてお会いしようと思うならば、三次元を超えた世界観を持てばお会いできる可能性は十分にある。み言葉は確かに霊的なみ言葉だけれども、地上の時空間概念という位置から離れない限り、霊的という意味すらもわからない。地上の位置から霊界の事実は象徴的にしか捉えられないのであり、まして霊界を見通すことなど地上意識のままでは無理だ。意識があって認識できるのであり、地上意識のままだと地上的認識でしかない。霊的感性の未熟な私達の霊界認識も多分に地上的認識であって、それは天宙を包括する多次元を見通せる位置で認識する霊界の地上意識面への影でしかない。御父様は全生涯を通して公的に生きてこられた方であり、人類と神様に供えられた血と汗と涙の精誠が次元の壁を壊されたのであり、私達の意識を三次元の枷から解放して下さる。誰の為でもない私の為に流された血と汗と涙であることを実感できれば、御父様の世界観、天宙観を受け取れる心情圏の核に到達できる。御父様の世界観、天宙観こそが真実であり、その真実からすれば、私を取り巻く地上の現実は実体をもたない影に等しい。現実が私を取り巻いていると思っているけれども、私が相対する霊的世界の表象として、写し鏡のように現実を見ている。私の偽りの本質が現実を見せていると言ってもいい。現実は影で私の内的世界こそが実体だ。後天時代は先天時代の世界観が反転する。内面世界が生きる現実になり今までの様に外界に重心を置いて生きることはなくなってくる。私達は三次元の世界観を超えていく。外界が変わりながら内界が変わっていくのではなく、私達の意識が変わることで先ず内界が変わり、それによって外界も意識の光が新たな認識、新たな文明という光の表象となって変わってくる。御父様と同じ世界観、天宙観に立てないのは、私の意識が御父様と同じ心情圏の核から発せられたものではないからだ。

2015年7月2日木曜日

今日の想い 858(批判のみに集中する受動的信仰)

教会幹部や責任者、教会長に対する批判が目白押しだ。口角泡を飛ばす批判ブログに目を通せば、先天のカインアベル観べったりの受動的信仰から抜け出せない彼らの甘えが見えてくる。批判の意識にはみ旨に対する自分の責任がありながらも、そこに蓋をしてしまって、位置につく者への責任転嫁で自分の責任を軽くしようとしている。一言あるなら直接中心者に話してこそ解決ができるのだけれども、日本人としての体質が中心者に対してものが言えない状況にさせている。その中心者も更に上に対して同じようにものが言えない状況にある。しかしものを言わないことが絶対信仰でないことは明らかなのだが、それでも口を開かないのであれば信仰に名を借りた自己抹殺だ。自己否定は堕落的私を否定するのであって、私自身を亡き者にするのは自己抹殺だ。霊的自殺だ。先天時代は良しとして、ものが言えない状況で言われるがままに歩んでいた後天時代のここ数年、その状況で自分がどれだけ内的に外的に成長しただろうか。全部捧げてもそれでも願いからは程遠い状況では、外的に実力を備えることは困難だということは理解できる。しかし内的にどれだけ心情を復帰し、より御父母様との心情因縁を築いたかという点についてはどうだろうか。内的な成長もない、外的な実力もつかない、それで奇跡を信じ天運の到来を期待しているなら雲に乗ってくる再臨主を待ち望むのと何ら変わりはない。私達が期待しているような奇跡は天地が逆になってもおこらないし、天運を期待している時点で自己責任を逃れようとしている。この生殖器が罪を犯すのだけれども、生殖器を取ってしまったら元も子もない。それと同じように、ものを言いたいけれども言わなかったというならまだしも、去勢されてしまって言いたいことがあるという精神を失っているのであれば唯識ことだ。御父様は私達に氏族メシヤの位置を与えてくださった。氏族メシヤの権限と言い換えてもいい。更に私達は真の父母の名ではなく自分何某の名で報告祈祷をしている。天に通ずる直接のパイプを持っているということだ。それは中心者に対して物申す権限など当然含まれている。物申して聞く耳持たずならそこの教会に留まる意味を再考した方がいい。教会に留まらずとも氏族伝道もできるし、家庭単位の祝福権限は与えられていて問題ない。絶対信仰は先天時代の受動的な姿勢では絶対成り立たない。兄弟一人残らず能動的信仰を備えるべきだ。