2015年8月31日月曜日

今日の想い 877

今記念式典を見終えたところだ。店を任せて帰ったのが7時半頃、デスクトップを立ち上げるとちょうど始まろうとしていた。一番の関心事は御母様が何を話されるのかということだったが、二部でのミュージカルも御母様中心の摂理への意欲を駆り立てる意志が感じられて非常に良かった。斜に構えれば随分幼稚で漫画チックなサタンの描写で、対外的にどう思われるだろうと感じなくはなかったが、子供を含めた皆に意識を持ってもらうにはこれぐらいでちょうどいいのかも知れない。意地の悪い私はともかく、御母様が満足そうにしておられたということの方が大切で、奮闘した二世達には心から賛辞を送りたい。御母様は原稿も用意されず、とうとうと語りかけるように話を進めて行かれた。よどみなく話される御母様を拝見しながら、御父様の意志を受け継がれた御方であることを天地が既に認めており、この御方を中心にして世界も天宙も回り始めていることが明瞭に伺えた。御母様はまさに新しい時代圏の中心核であり中心ギヤだ。中心ギヤに合わせられないギヤは空回りするだけで、御母様に合わせなければ新しい時代圏の運勢を得る事は出来ないだろう。第一は先ず2020(イーゴンイーゴン)だ。それが今までの失敗摂理で繰り返してきたように、御題目を唱えたままで終わるのではなく、それぞれが実現可能な段階目標を掲げ天に宣誓して、確実にその段階結果を報告できるものでなければならない。祈祷が結果を報告する報告祈祷でなければ祈祷が意味の無いものになりかねない、とさえ思えてくる。後天時代の祈祷も先天時代のそれとは大きく変わるべきだ。3年の期間を終えて、摂理も本格的にエンジンをフル稼働させながら進んでいくのだから、私達の意識がそれに応えるものかどうかを問われることになる。霊的に目覚めた者は御母様の大切さを十分に知るのであり、分派の穿った見方からすれば、食口達は情報が閉ざされていて騙されているように見えるのだろうが、彼等のいう事実を公開されようがどうだろうが、そんな事実に左右されない霊的位置に食口達はいる。しかしこれからは能動的にみ旨貢献への道筋を立てるべきであり、自らの責任において実績を残し報告できるようにならなければならない。この世の者達が人生設計に余念が無いように、私達はみ旨貢献への道筋に余念なく、それぞれがそれを熱く語れるほどになるならどれほど霊界は後押しするだろうか。

2015年8月29日土曜日

今日の想い 876 (聖和三周年を迎えて)

昔は、人事を受けたら三日以内に移動するように言われていた。新たな摂理路程出発のためのサタン分立三日間だ。講論にあるようにアブラハムが三日の猶予をしてイサク献祭の信仰を立てたことから来ている。よって新しい摂理の出発は常にこの三日期間を必要とした。御聖和3周年を迎えた。3年の喪の期間を超えたのであり、それは先回も言ったようにこの3年が出発の為のサタン分立三日路程だ。3日がどうして3年になるのかと問われれば今の時点では説明のしようがないが、説明できないまでも私は確信を抱いている。この3年という期間は実に混迷を極めた。それこそ暗黒の三日間だった。アブラハムがモリヤ山に行き着くまでの葛藤をそれぞれの位置で味わい超えてきた。それは別の表現をするなら先天から後天への産道であり、敢えて言うなら御父様信仰の蛹(サナギ)を脱いで御母様を通して天の父母様に向かうという新しい意識を持った自覚に目覚めることでもあると思っている。黒表紙から赤表紙の天聖経に、一人息子から一人娘に、教会の説明には無理に論理付けようとして苦しい説明になっていると思われるのを否定できないが、はっきり言うなら御父様中心の信仰から御母様中心の信仰へ、天の御父様から天の父母様へ、聖霊として母が協助して父の願いを果たすものから神霊として霊界から父が協助して母の願いを果たす父子協助へと、信仰観、世界観からして全く変わっている。それほどの意識改革が為されてこそ実体的天一国は着陸するのであり、世界を席巻する運勢圏を手にし実力を行使できるようになる。昨日食口の従業員を通して個団に責任を持つ兄弟からレターサイズの封筒を戴いた。開けてみると御母様の御写真が一葉入っていた。それをつくづく見ながら、いよいよ新しい時代圏に入っていくという感慨を覚えた。新しい時代の運勢圏は御母様と共にある。もし御父様への慕わしい想いが御母様へ向かう想いを妨げているとするなら、それは切って捨てるべきだろう。それは先天時代への執着であり、踵を返して回帰へと向かってしまう。新しい後天時代は御母様への想いなくして切り開かれることはない。先天時代の私に未練はないときっぱりと決別すべきだ。臍(へそ)の緒は切ってしまわなければならない。

2015年8月25日火曜日

今日の想い 875

救援摂理歴史は6000年ではなく何千万年だという御父様のお話はどう捉えればいいのだろうか。「6000年は嘘で実は何千万年が本当だった」と修正された話ではなく、科学が分析するところの地上時間に拠れば何千万年であって、より内的霊的見地に立って数理期間の意味で歴史を紐解けば6000年の復帰摂理歴史ということになる。6000年は復帰摂理に立った象徴的歴史であり、象徴的を代表的と捉えればわかり易いかも知れない。歴史観は様々な歴史観があるのであり、人生観も幼年期か青年期か壮年期か老年期かによって見方は異なるし、死が見えていない者と明日には死ぬとわかっている者とも異なるし、人生の流れはそれぞれで異なるのと同じで歴史の流れも歴史観によって異なる。正しい歴史観、というものがあるのかということだが、復帰摂理歴史観は神様の見地に立った歴史観であるので正しいというより代表的歴史観であることはわかる。何千万年という歴史はハルハル(一日一日)の積み上げ、すなわち足し算の歴史であり、この地上に足が立った人類始祖から続くそれぞれの跡継ぎが生まれるまでの年齢を積み上げれば何千万年という歴史になる。この何千万年分の数十年という限りなく0(無)に近い自分の存在という観点に立てば、殆ど歴史に対する自分の存在意味は流れを止めなかったということ意外なくなる。私という存在意義は足し算の歴史からではなく、象徴的、或いは代表的な私という見地を見る復帰摂理歴史から私の存在意義は生じている。復帰摂理歴史観に立たなければ死を超えて、死を主管して立てる私ではなく、死の訪れを忌み嫌い、死を恐れながら明日には踏み潰される逃げ回る虫けらでしかない。種付けしたら、あるいは子供を産んだら、ただの粗大ゴミだ。しかし復帰摂理歴史に立つ私とは神様の願いに身を賭した者達の果実であり歴史的結実体だ。復帰摂理歴史観に正しく立てば、私という存在の歴史的使命が見えてくる。生き永らえることが問題ではなく、生きてどう貢献するかが私の人生の主題になる。しかし悉く願いに応えられなかった足跡を見る限り、どう死ねば貢献できるかということに意識を割く必要が出てくる。6000年という代表歴史に何千万年という歴史が集約されているという、とてつもない歴史の重さを表現されたのが最初に記したお父様の表現だ。

2015年8月22日土曜日

暗黒の三日間の終焉?

こうなればこうなると見るのは信仰ではなく見通しだ。信仰は、こうならざるを得ないものを結果的に天の願いであり私の願いに沿うのだからああなると見るのであり、信仰が絶対である必要は、どう見てもこうなってしまうものをああなると言い切ることだ。見通しを180度変えてしまう力が絶対信仰だ。社会の流れを変える力は人間の力ではなく天の力だと思うのは正しいかも知れないが、天の力の行使は人間の信仰に依るものだ。、、と私は思っている。そう思えなければ信仰は、信仰条件は、堕落圏から逃れられないまま希望的観測を夢見て終わる夢想家の道具でしかない。私達は白日に夢を見続けて一生を終える夢想家だろうか。地上天国実現と言いながら心の奥では実現できないことを既に受け入れているのだろうか。心と体の一体化もそうだろうか。氏族復帰もそうだろうか。諦めて余生を静かに過ごすことしか意識にないのだろうか。分派といわれて歩む者達も、分派だとレッテルを貼る者達も、もはや地上天国実現の理想に霊肉一つとなって身も心も注ぎ込むほどの熱い波動を見ることはない。どこかの段階で妥協し、翼を挫いてしまった自分を誤魔化すため無意味な神学論争に意識を遊ばせている。言い負かしたところで天国建設の垂木一本ですら持ち上げたことにはならない。ただの自己満足だ。独善的だ。私達の中に50人ほどの正しい者でもいるだろうか。50人どころか10人だけでもいればその10人のためにソドムを滅ぼさないと神様は約束されたように、私達の中に10人の絶対信仰を立てる者がいるなら、その10人のために天の父母様は地上天国を実現させるはずだ。今こそ私達は絶対信仰に立つべきだ。絶対信仰の意味を悟って、砂地に水を撒くように見える事でも精誠の限りを尽くして前進することだ。小さな一つの一歩でもその一歩に命をかけるべきだ。見通しが立って靡くように立ち上がるのは絶対信仰とは言えない。どう見ても実現しようのない現実の今だからこそ絶対信仰が必要だ。御父様の聖和三周年を数日先に迎えようとしている。霊的視界を漆黒に染められてしまったように天国への行程を見失なっている。天国への見通しが立たない今こそが暗黒の三日と見るべきだ。三日を文字通りの三日と見るのではなく、原理の期間数として見るならこの3周年という期間を三日と見ることができる。御母様は混乱している教会で右往左往している食口に向かって、三年を待ちなさいと語られたようだが、その暗黒の三日を超えて、空を覆うほどの数多の宇宙船に乗った天使天軍が地上に降下する。(このブログを見続けている方にはわかるはずです。2007年2月予知夢参照)子供の頃に霊視したあの光景がまさに今このときに起ころうとしている。時々こんなことを口にするものだから穿った目で見られてしまう。しかしあざ笑う者は笑わせておけばいい。特に食口の多くが一笑に付して流し去るだろうがそれでもかまわない。かまわないけれども、実体的天一国、天国実現への絶対信仰は供えるべきだ。

2015年8月20日木曜日

今日の想い 874

天の父母様が私にとっての親であり、私は子供の親だ。私が親として子を想う気持ちがあるように天の父母様も私を想う気持ちがある。親の子に対する想いが子に伝わらない切なさややるせなさ。私は朝目覚めると同時にその想いで身を焦がし始める。その日一日身を焦がしながら魂はぼろぼろになって床に就く。次の日の朝目覚めると、昨日の魂が癒えないままにまた身を焦がし始める。来る日も来る日もそうやって身を焦がしながら、親はどこまでも親であること、子を想う熱に身を焦がし続ける存在であることから逃れられない。親は親の愛ゆえに子に振り回される。子は振り回そうという意志のないままに親を主管する。親の愛ゆえに子を主管する立場に立つためには、子を、親を想う気持ちに目覚めさせる必要があり、そこに至るまで親の安住はない。今日もとろとろと燃え続けるろうそくの火のように、身を焦がしながら子供の面影を追っている。親の愛に反応して喜びをそのまま返してくれていた頃、何の曇りも無い愛の写し鏡のように思えていた頃、そこに釘付けされた面影を追いながら逃れることができない。おそらく私に問題があるのだろう。私が間違っていたんだろう。私の想いは親としての真の愛だと思っていたけれども、それは子に愛されたい親の執着だったのかも知れない。当時はある程度の年齢を超えなければ家庭を持てなかった。同じ年代夫婦が子供の結婚話をする頃に私達は初めて子供が産まれた。親が子を育てるというより祖父母感覚でかわいいかわいいと接してきた。高齢出産がいいとか悪いとかではなく、子供の愛が育つ為には教え諭す厳しさが必要だったのだろう。今の状況に立って始めて、愛した愛は何だったのだろうかと愛が得体の知れないもののように思えてきた。親の愛は男女の愛の真偽入り混じる不可解さと比べて単純なものだと思っていた。親が子を愛するに良い愛も悪い愛もないと思っていた。しかし愛してきたと思い込んでいた愛が、現実として裏目に出るのは偽りの愛だったということなのだろうか。アダムエバの問題を超えた時点で愛の問題の峠は超えたという感覚があった。家庭をもって子供が出来たなら、親として当然の親の愛を子に注ぎ込めば道を外さない子として育つという何の不安もなかった。そこに間違いなど起こるはずもないと思っていた。しかし愛の関門は家庭にもあった。私は子に注ぎ込み、愛の実として育てるほどの親の愛を与えてはいなかった。今になって悔い改めようにも過去の時間を取り戻すことは出来ない。霊界に逝かないまでも、既に地を叩いて悔いている。これから親としての私はどう修正すればいいのだろうか。天の父母様もそんな悔悟を覚えることがあるのだろうか。真の愛の御方であればそれはあり得ないことなのだろうか。

2015年8月19日水曜日

今日の想い 873

私達は世間から見れば独善的な存在だ。独善的であればあるほど伝道は困難さを増す。しかし信仰に立つということは独善的になりやすい部分を含んでいるとも思われる。オウム真理教というカルト教団があった。カルト呼ばわりするのは社会が受け入れられない特別な信仰に対する悪と見なす判断で、私が同じように彼等をカルトと呼べば社会と同じ位置に立つわけだが、殺人まで犯してしまうとカルトと呼ばれても仕方ないだろう。日本では統一教会も同じ括りでカルト呼ばわりされているが、それは殺人はしないまでも私達の独善的反社会的な一面を見てそう思われている。高額な物品販売も、その手法も、日本社会では受け入れられないものだった。善悪を言っているのではなく客観的判断だ。それは対社会のみならず内部に於いてもそうで、有り金全部献金させるということも、借金までして献金するということも、さらには教主に結婚相手を決めてもらうということまでも、この世にしてみれば受け入れられない特別な信仰だった。未来永劫代々にまでその同じ信仰姿勢を維持し続けるのかと問われれば、ある段階に於ける摂理の願いがあり、信仰条件としてそういう期間が必要だったはずで、期間を過ぎていつまでも同じ行動姿勢を取れば受け入れられることはないだろう。期間を超えれば箍に嵌められた信仰姿勢から箍を外されるとみるべきだ。信仰条件が取られて自由を勝ち取ったとみるべきだ。受動的信仰から自由な能動的信仰を許された。先天の受動的信仰では実績への責任は御父様が肩代わりして、実際問われることもなく、惨敗の結果であっても御父様は実りをもたらさない悪い種だったと判断されて見捨てることはなかった。しかし後天時代は違う。自由な信仰行動を許されることで、確実に実績への責任を問われることになる。先天時代の様に落ちずに付いていればそれでいいという訳にはいかない。世間が受け入れ安い教会の在り方や食口の信仰姿勢を備えることで実績は付いてくるはずだと思えるのは、内的なものが主体であるにもかかわらず、外的なものを変えれば何とかなるという迎合主義に嵌っていく。もちろん外的事柄も大切だけれども、そこから入るのではなく、私達の能動的信仰の確立があってそれからの戦略的話だ。でなければカナンに入ったイスラエル民族のように迎合しながらこの世に染まってしまう。如何に私の能動的信仰を確立するか。後天時代に真の父母と一つとなり願いに応える私になれるかどうかはそこが分水嶺だ。オウム真理教はグルである教主の間違った認識によって宗教団体を殺人集団へと駆り立てた。しかし弟子達の責任は全く無かったかというとそうとも言えない。私達は特殊な宗教に絡んだ過去の事件だと見過ごすのではなく、彼等から学ぶ点がある。彼等はグルの言いなりになった。グルが問題であったのはその通りだけれども、受動一辺倒でものの言えない弟子達にも少なからず責任がある。彼等に内的成長があるなら殺人という手法手段に疑問を抱く良心の啓発もあったはずだが、それが欠けているのであれば人間としてではなくグルを頭とする手足の存在でしかない。もちろん御父母様は彼等のグルとは比べようも無いけれども、御父様が言った言わない、やれやるなの戒めへの教条主義に我々が陥ればオウムの連中と変わりないことになる。教条主義は受動一辺倒の信仰だ。能動的信仰はそれを超えて御父母様の心情を相続するところが起点となる。手法手段は心情を相続した私が決めればそれでいい。私達は彼等のように悪魔が支配する群れにはなり得ないが、先天の受動的信仰に留まれば実体的地上天国の建設は絵に描いた餅でしかないだろう。御母様の前に言葉や態度だけは素直だけれども、それで善しとしてしまったら天国建設の石一つさえ積み上げることは無い。

2015年8月15日土曜日

今日の想い 872

これが正論だとぶちまけても、独善的であれば人は受け入れない。私達が社会に少しずつ受け入れられてきたのは、み言葉を押し付けたからではなく、勝共活動や純潔運動など社会が望むものを差し出すことで少しずつ浸透することができた。浸透して初めてみ言葉を語れば注ぎ込まれていく訳で、相手の懐を開かずに、独りよがりに押し付ければ反発を買って終わりだ。私達はこの世的にも十分に苦労してきたはずだ。苦労して、人が生きるためにどれだけ辛酸を舐めているかはそれなりにわかっている。相手の閉ざしている心を開くためには同じ目線に立ち、苦労を共感することで開かれるのであって、上から目線でみ言葉を語っても、押し付けられているとしか思わず心を開くことは無い。上司として部下を指導するのも、その肩書きだけで命令しても受け入れられることはなく、やはり部下との間で共感感情を引き出す必要がある。これが正論だと言い負かしても共感は起こらず、よって一つになる道は閉ざされる。正論で言い負かすのではなく説得して共感を得ることが要求される。ブログはどうしても一方的であって、相手を言い負かすことはできるとしても双方向的にやり取りして共感を得るには至りにくい。反対派にしろ分派にしろ原理をかじった者達の教会ブログが盛んなのは一方的であるというブログ体質に合っているからだ。私達食口は原理という正論が先ずてっぺんにあるので、どうしてもその理屈で相手を押さえ込もうとする。その自覚が無くてもそうなっている。私達にしてみればそれを相手の為だとし愛とまで理解していて当然至極のことなのだが、相手にしてみれば一体何様のつもりかという感情が起こり押し付けようとされているとか裁かれているとしか思えない。原理は万民が理解し共感する原理だと思い込んでいるけれども、私達と同じように受け入れる人の層は実に限られている、ということを先ず認識しなければならない。私達の伝道が行き詰まっているのは、私達が受け入れたと同じように受け入れる人だけを相手にしているからだ。ましてや同じように受け入れた薄い層の食口達でありながらも、一つになっているとは言えないありとあらゆる分派が発生している。ひょっとしたら原理が先ず入り口だと思っていたのは我々だけで、原理を受け入れずとも御父母様を受け入れる層があるやも知れない。そうなると狭い統一村の中だけで言い合っているのは馬鹿馬鹿しく、大海に出て受け入れる層を見出して釣り上げる方が天の願いに適っている。

2015年8月11日火曜日

今日の想い 871(砕かれた期待感情を超えて)

私達は反社会的だった。親元を飛び出し、会社を辞め、献身という名の自身の供え物を捧げて万物復帰に明け暮れた。何と単純な、何と能天気な行動だったかと思えるけれども、そうせざるを得なかった明白な何かを感じ取っていた。今にしてみれば思い出せない強い期待感情を抱いていて、それに突き動かされていた。行動はもちろん主体的であったけれども、突き動かされた感情は受動的で一方的に受け取ったものだ。そしてその感情は個々人それぞれ別の感情を受け取ったのではなく、一つの感情を全体として受け取り、その同じ感情故にお互いが兄弟姉妹だ、食口だと何の蟠りもなく感じ合え言い合えた。私は6000双だけれども74年には復帰されていて、献金路線に入る直前の、最後の古き良き(?)教会時代を知っている。当時は理想を語り夢を語り、皆が同じ理想、同じ夢に酔いしれていた。移動しながらの万物復帰は既に始まっていたがまだ旅行感覚で、自然を賛美し、また訪ねる人々のうら若き青年への暖かい眼差しに支えられていた。それから奴隷船といわれるF部隊へと厳しい時代に入っていくわけだが、それでも献身に駆り立てた期待感情は地下鉱脈の静かな流れのように息衝いていた。その期待感情は何をもっての期待かというと、最大の期待は子供に対するものだった。罪のない、神性を備えた、心情豊かな祝福二世を期待していた。能力や実力に於いても秀でているはずだと期待していた。私達の信仰と祝福の価値は祝福二世をして、親を始めとする親戚縁者にも、さらに教会に反対する人も含めたこの世の人々にも、見上げるばかりに証されるものだと信じ込んでいた。が現実はというと落胆するものだった。私の描いていた祝福二世へのイメージからはかけ離れていた。それから私の何が間違っていたのかの軌道修正が始まった。それはみ言葉の本質の中の本質、核に接近するものでなければ、自分の本質である内的なもの自体が狂っていると認識しなければならないのであってできるものではなかっただろう。今ですら私の内面は正しいものとなったとは言えない。ある先輩食口の離反が物議を醸している。退会届に記された内容には私も頷けるし、退路を立っての献身の覚悟には死生決断が漲っていて、教会責任者達が彼女以上の覚悟を供えて舵取りをしているのかは甚だ疑問だ。しかし、それでも踏みとどまるべきだ。踏み止まって内部に於いてその覚悟の声を発するべきだった。内部であれば暴露しようが何しようが暴れるだけ暴れても問題はないはずだ。何がどう転んでも御母様のもとを離れるべきではない。退会届にも遠慮勝ちに記されてはいるが、御母様への不信が大きな要因となっている。御母様に対する不信が無ければ直訴すればいいだけの事で離れる必要など全くない。御父母様は一体圏にないから御母様はみ言葉と伝統を覆されたと取るのか、一体圏にあられるからみ言葉と伝統を覆されたように受け取れる事も敢えて為されたのか、私は後者の立場だ。変えるなと言われたみ言葉を覆されたように見える赤表紙や、御父様に対抗するかのような独生女宣言も、それ自体が御母様が願われた最後の目的ではないはずで、天の悲願であり御父様の悲願でもある地上天国実現を為すための布石として、御父様と一体圏にあられる御母様の責任に於いて為されたものだという認識を持っている。御父様を超える反感を買うほどの強い意志がなければ、御父様の地上に居られない状況で、霊界からの御父様の指示待ち指示受けで動くような霊能者感覚で天国が為されるとはとても思えない。敢えてここでも言いたい。天法に一つでも引っ掛かれば天国には行けないが、そこには秘法があって天国を築いた者は天国の住人になる。自分が信じたいものを信じたとして、どれだけ清廉潔白に生きたとして、地上天国が為されなければそれは何の意味を持つのだろうか。自己中心的信仰、良心に思える自己中心的善悪判断に終わったと切って捨てられる。少なくとも御父様の地上に居られる間は実体的地上天国は完成されなかった。実体的な意味でどれだけ進んでいたのかと問うても誰も答えられないだろう。ならば私は御母様にかける以外ない。環境創造という御母様の言葉は天国実現への道を肌で感じる。天国への期待感情に酔いしれていた当時を振り返りながら、懐かしくもそこに留まるのではなく、私達は天国を実現して、少なくとも地上天国実現の道筋を立てて、天国の実体感情を味わわなければこの道にかけた人生が流れ去る。

2015年8月9日日曜日

今日の想い 870(ホームランド広島、そして真の平和)

被爆国の国民として、広島県民として、原爆の真実を全世界に知らしめる責任がある。それは尊い犠牲を目の前に並べて生き地獄の恐ろしさを伝えて果たせるものでは決してなく、平和の本質的な意味を伝え、真の平和の実現を見てこそ果たせるものだと言えよう。私は敢えて真の平和と言葉にすることによって、蔓延している言い古された平和が不安と恐怖の上に成り立ち、それは多分に人間の弱さ、無力さを根底で是認する唯物主義、人間も他の動物と変わらない動く物だという唯物観から来ているのであり、その偽りの上に成り立っている偽りの平和と敢えて線を引きたい。人間は肉の存在ではなく霊と肉からなる精神存在だという観点に立たない限り、犠牲とただの被害を混同させてしまって尊い犠牲を捧げた者達を総じて被害者で括ってしまう。彼らは被害者ではなく人類の真の平和の為に選ばれた聖なる者達だ。彼らの精神の高み、霊的位相の高さは見上げるばかりだ。私は投下された後の広島の映像を見て、これはゴルゴダの丘だと思わされた。原爆の象徴として残された産業奨励館、原爆ドームはイエス様の茨の冠そのものだった。瞬時の強風にほとんどの鉄筋は薙ぎ倒され瓦解の荒野と化したけれども、産業奨励館から東へと映像を追えばどうしても目に止まるもう一つの建造物がある。鳥居だ。茨の冠を被るイエス様の象徴が先ず目に写り、ユダヤ民族、ユダヤ教と大きく関係する神社の鳥居がその象徴として居残り立っている。瓦礫と累々たる死体の荒野に立つこの二つの建造物は、犠牲を供えた者達の魂の集結だ。長い、気の遠くなるような復帰摂理の歴史に供えられた選民達の犠牲、さらにはキリストであるイエス様の犠牲を始めとするクリスチャン達の犠牲、そうして彼等が果たさなかったことに対する戦争や原爆の犠牲、その夥しい犠牲の全てを一瞬で表現しているのが原爆投下による広島の光景だ。犠牲の地上的表現は血と汗と涙を流すことであり、それは人間の肉心としては避けたいことだけれども、血と汗と涙を流し去ることで勝ち取るものがある。それこそが真の愛だろう。真の愛という言葉を差し出されたのは再臨のメシヤである御父様だが、御父様ですら真の愛の前には跪かれる。真の愛を求めるならば必然的に犠牲を供えることを良しとしなければならないが、流された血の悲惨さを見るのではなく、流されることで真の愛を勝ち取り霊的高みに昇華する経過を見るべきだ。その認識がない限り、真の平和は掴めない。犠牲を供えることで真の愛は立ち、真の愛の地上化が真の平和であって、戦争の悲惨さをどれだけ訴えようとも屍が屍だと認識している限りは平和の本質には近付けない。恐怖政治ではなく恐怖平和だ。

2015年8月3日月曜日

今日の想い 869

真の父だけではなく、真の母だけでもなく、真の父母一体圏を立てるためにどれほどの犠牲が供えられてきたか。そこに思いを馳せなければ、御母様の為されることは御父様の言われたことと異なるとか、御母様の公的言動に疑問を抱かざるを得ないとか、沸き起こる否定的思いに主管され、祝福血統という心情的血筋から自分を切離してしまいかねない。犠牲は御父母様は勿論のこと、背後に累々と積み重ねられてきた人類歴史の全ての犠牲もこの真の父母一体圏を立てるために供えられてきた。真の父母は一体であるという言葉と、あれもおかしい、これもおかしいと思えてしまう内面の問答の言葉のどちらが重みがあるだろうか。一日に何千回何万回と来ては逝く儚い思いの一つ二つを取り上げて、真の父母一体圏に波風を立てようなど恐れ多いと思わないのだろうか。先ずその頭を切り落とすべきだ。現代人の最大の問題は頭が過剰に大きくなってしまい、利己的感情を頭を働かせることで正当化している。論理があって感情があると信じているけれども、本当は逆の様相だ。感情という己の気分を害したくないという執着が堕落人間にはあって、その為にでっかい頭を働かせ論理として組み立てる。そして見事な言い訳を立てて本質的自分を霊的に殺している。本質的な自分、重生した自分は真の父母一体圏なくして存在し得ない。真の父母一体圏に疑問を抱く限りは堕落圏を越える霊的に生きた存在とはなりえない。祝福を既に受けたから私の原罪は問われず重生された新しい私が存在している、という感覚は、自分が地上の歩みを通してなされる様々なる復活体験に支えられているはずで、復活実感がないにもかかわらず、私はあの時祝福を受けたという時間感覚と、理解した原理的解釈にのみ支えられている限りは仮祝福でしかない。説明に言葉を並べようとすればどうしても論理に頼らざるを得ないが、祝福を戴いているという恩恵は肉を超え霊を超え天宙一体圏の恩恵であることは論理で説明できるものではない。み言葉はその言葉が入り口であって、その本質の世界を訪ねなければみ言葉の生命には届かない。真の父母は一体であるという言葉がなければ、私は祝福を受け重生した自分であるという言葉はない。さらに戴いた祝福も数段階にわたり、その段階の復活体験と復活実感がなければ?マークの連続で、真の父母一体圏を否定する者はその域に入っていこうとすらしない。

2015年8月1日土曜日

今日の想い 868

8月に入った。新しい出発だ。先月、エアコンのパイプが壊れたか何かでカーペットの下を水が這い、表面にも浸透してきて濡れるやらかび臭いやらで大変だった。アパートのオフィスからカーペットの張替えをするから全部移動させるようにと言われたが、これだけの荷物をどこにどう移動させるのかと問うても肩をすくめるだけで返答はない。こちらでは無理難題を要求されることは良くあることで、憤慨を抑えて交渉しないと埒は明かない。で、結局交渉の末、同じ建物の他の部屋に移ることになった。今度は南向きだし、ベースメントから二階に移ったので湿気も無く生活環境は向上したが、一緒に住んでいた下の娘が飛び出してしまった。すねかじり状態だったから独り立ちするためには良かったといえば良かったのだが、送り出すのではなく飛び出したのにはそれなりの理由がある訳で、晴れ晴れとした気持ちにはなれない。これから一悶着、二悶着とあって亀裂は修正されず続くだろう。本当はこの年代なら祝福も受け、家庭も築いて孫を抱いていてもいいのだが、思い描いたような家庭理想はそう簡単には実現しない。正直をいうと家庭地獄の状態だ。家庭ですら地獄なのに氏族を復帰するなんぞ失笑ものだが、それでも希望を捨てずに前進するしかない。絶対信仰で乗り切るしかない。家族は当然一体だと思っていたし、私が親に対して抱いていた尊敬の思いや感謝の思い、さらに親を畏れる思いも、私という親に対して子供が同じように持つものだと思っていたが全くの当て外れであった。父権の強い一昔前の家族のあり方は今は無い。食っていける感謝、生活できる感謝から、今では逆にうるさい親などいない方がいいとまで思っている訳で、父権の力を見せ付ける前に親の愛を見せ、愛ゆえに繋がる家族だという認識を共有できなければ家族はバラバラになる。今の時代愛して一つになるという強い覚悟が必要だ。ある意味家族一体でなければ世間を泳ぎきれない生活環境があって、形として自ずと一つになっていたのに比べ、今は愛の強さがなければ一つにはなれない。愛と真の愛の違いは何だろうかと悠長に問えないほど、実践としての真の愛の投入を要求されている。