2018年7月8日日曜日

今日の想い 979

米本氏のブログに価値観の強要云々という指摘があった。残念ながらその指摘は適格で的を得ている。この指摘に対して食口がどう思うかというと、どうも思わない。思考としての原理観が入り、主体的な意味での価値観という言葉はないからだ。価値観の話をする以前の問題として、人類は堕落し自分は堕落人間だという認識が入っており、よって全てを否定すべき自分であり価値観という観に関する事は上から受け取るもので、自分発信の価値観となるとそれは自己中心だという堕落性で括ってしまう。それは価値観に留まらず宇宙観も人生観も幸福観も全てにおいてそうだ。観は天の観であるべきで天と一体であられる御父母様の観、御父母様から流れ来る中心の観へという認識があるので、自分の価値観などもっとも否定し追いやってきた価値観だ。その認識を洗脳されていると世間は見るのだろうが、食口にすれば堕落人間の各々の価値観など天に繋がらないし認められない、それこそサタンに害され洗脳された価値観だと思っているだろう。しかし良くも悪くも変革の時代を迎えている。自我を否定する在り様、自分の観を持たず上からの観をそのまま受け取る在り様、そんなものを備えられるはずがないという二世や三世が当然出てくるし、三分割されている今の状態では信じていた中心的価値観が役に立たなくなっているということもある。しかしそれは表面的なことで、掘り下げた霊的核は一つだということに変わりはない。北朝鮮のマスゲームがひとつの頭と繋がっている全ての末梢神経としての人民一人一人だからできるように、教会の合同結婚式も真の父母というひとつの魂から分化した、霊的親子関係である食口ひとりひとりだから成立する。北朝鮮は生命体の思考に於いてひとつだけれども、教会は生命体を超えた魂の体に於いてひとつだ。位相を超えてひとつだ。さらに今の時代は、食口は魂の体を超えて霊的にひとつであることへの認識に目覚めなければならない。霊的という言葉は使ってきたけれども認識として魂次元に留まっていた。その意味で本当の意味での霊的認識に深めていく必要がある。変革の時代を迎えて今までの在り様を否定したのではなく、あるいは方向転換したのでもなく、霊的位相の段階を上げていくことで主体的な価値観を備えることができる立場に立っている。別の言い方をすると、価値観を全く同じにしなくても観を超えた部分でひとつだという絶対的認識が価値観の多様性を許している。

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