2018年7月31日火曜日

今日の想い 986

人間は慣れてしまう存在だということを認識しなければならない。とりわけ食口にとっては慣れるということ、慣らされているということがどういう状態にあるのかを意識してほしい。当然のこととして行動している一つ一つを、それがどういう意味を持っているのかを立ち止まって再考してほしい。今は一線を退いたが、摂理に携わった殆んどの期間をビジネス畑に身を置いて歩んできた。ビジネス分野で自分の技術や能力を高めて今に至ると、当然のように想像するかもしれないが、実際はほぼ飼い慣らし状態、要するに人間の形をして人間の言葉を喋る家畜状態であったことを認めなくてはならない。そうかと言って今までの歩みが無駄だったと言うつもりもないし、常にみ言葉を中心として歩んできたことは正しく、それ故に護られもし引き上げられもしたし、これからもそうあることを望んでいる。しかしそこに留まるべきではないし、今こそ変革を願われている。教会体質は共産主義体質だと今まで憚ることなく言ってきたが、その体質が癌だというより、その体質に慣れてしまうこと、慣らされることが問題だ。できるだけ利益幅を出す為に皆同じ低い手取りにする。頑張っても頑張らなくても変わらない給料となる。これだけ収益を上げたのだからとアップを要求する、というのは全体を考えない自己中心的だという意識が働く。しかし変わらない低い給料に慣れることで、技術や能力も今までのままに慣れてしまい、キャリアの向上という意識は働かなくなる。摂理の為、天の願いだと言葉だけは空しく響くが内的にも外的にも内容が全くついてこない。そして今の惨憺たる状態になっている。私達の中から共産主義体質を取り除かなければならない。共産主義を否定しながら私達の体質に共産主義が潜入している。二世や三世に引き継ぐのは一世の体質ではなく、慣らされてしまって中心への意見もない魂でもなく、為に生きる犠牲精神すなわち心情だ。自分のそれがどれほど小さいものであってもそれしかない。その欠片さえも自分の中に見出せるだろうか。

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