2018年7月1日日曜日
今日の想い 977
ラスベガスには如何わしいショウもたくさんあって、以前責任者からこんな話を聞いた。御母様が責任者達を連れ立ってトップレスショウを見学したという話だ。嬉々としてその話をされる責任者に敢えて微笑んで相槌をうちながら、私はこんなことを考えた。これは御父母様が仕掛けた責任者に対する試練なのか、しかしサタンの誘惑は神様が許さざるを得ないから誘惑への試練となるのであって、神様から試練を仕掛けることはないはずだが、、。では純粋に御母様は我々がこういうショウを見ることに罪の意識を覚える必要はないということなのか、等々自分なりにいろいろと思案してみたことがある。ラスベガスをシンシティからサンシティにと話された意味は、至る所にある堕落性を誘発する根を引き抜いてしまえばサンシティになる、という意味からだと思っていたのだが、そんなショウ等も含めて今のラスベガスそのものをサンシティにされたのではないか、という思いも次第に強くなっている。だから敢えて御父母様は責任者達をショウに連れていかれたのかも知れない。それぞれがどんな思いや感情を抱くかも踏まえてだ。確かに私は性の表現に対して恥ずかしいという思いを持ち合わせている。では性に対する欲望、欲情そのものは本当に恥ずかしいことなのだろうか。或るブログで、夫婦生活であっても欲情で相手に接すれば堕落的だと言っていたが、それについては一言あって、食生活に欲があるように性生活に欲があって何が悪いのかというのが私の持論だ。むさぼるかどうかは別にして、性欲で接するのが本当に堕落的であるなら敢えて交わりを禁じてしまえばいい。私は欲のない夫婦生活などかえって気持ち悪い。そこに愛の妙味もないし人間らしさもない。覚めた冷たい機械的無機的な動作でしかない。人類の文化史を見れば、先ず外的文化の形成は常にカイン圏で為され、そこにアベル圏の内的文化が合わさって来たのであって、性文化に於いてもカイン圏のそれは堕落そのもので、それとは全く異なった在り方でアベル圏の性文化が湧いてくるとはとても思えない。トップレスをいかがわしいショウと表現したが、もはや私達の言葉に、いかがわしいという言葉はなくなっているのかも知れない。情欲を抱いて女を見れば罪なのだろうが、情欲で愛すべき妻を抱くのは罪ではなく悦びだろう。実は60も過ぎれば欲さえ抱けなくなるという別の夫婦間の課題があって、愛のモチベーションは肉体を超え魂を超え霊的領域へと探っていかなければならない。
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