2018年7月10日火曜日

今日の想い 980

オウムに関してはいろいろと検証されてきたけれども、多くの疑問を残している。執行されたことで唐突にメディアがこぞって取り上げ、口だけは達者な似非論者ばかりが顔をだして泡を飛ばしているが、本質には誰も迫ってはいない。しかし殆んどの取り上げ方として、新興宗教を悪者扱いすることを当然としていてバランスを欠いた論議になっている。この手の話になると我が教会は必ずと言っていいほど取り上げられるのだが、それは致し方のない部分もあるが、それにしても一方的な批判で括られてしまう。メディア自体がバランスを欠きがちなのは、一方でなければ一方という極と極の二者択一に因るもので、本当なら100%悪もなければ100%善もない。その中間をあるものは善より、あるものは悪よりで、悪だ善だと断定することは出来ない。更に言うなら善悪は結果論の言葉で、結果を待って初めて使える言葉だ。ではオウムはどうかというと、ある地点で引き返せないほどバランスを欠いてしまった。中心である麻原が宗教者としては超えてはいけない領域を犯してしまった。殺してしまうことで善に繋がる余地はなくなり、彼の秘儀は使い方を間違えた黒魔術となった。そして黒魔術にかかった信者はサタンの手足に成り悪鬼が悪鬼を呼び起こしていった。人間ほど恐ろしいものはない。同じ人間の輪郭の中に一瞬で悪鬼を住まわせてしまう。そして彼らを結果的に調子に乗せたのはメディアだった。メディアが面白がって出演させ、放言するにまかせたものだから、日本国中に知れ渡るその知名度に酔いしれそれが殺人への罪悪感を消している、と共により大きな殺戮へと駆り立てている。オウムがテロ集団になってしまった背景にメディアの大きな関わりを見るのでなければ、この悪魔の正体は暴けないだろう。教会と同じように科学と宗教の統一を謳い、生死の意味を差し出そうとした小さな一宗教団体の群れが、恐怖のテロ集団に変貌する。

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