2019年5月30日木曜日

左手薬指に刻まれた記憶

私の左手の薬指は、今でも先の方は触感がない。その指先の腹に斜めの筋がくっきり入っていて、そこを常に親指の腹で撫でている。40年前刺身包丁で傷つけた指だ。あちこち切り傷の痕は手に残っているが、この指先だけは触感がないだけに気付くといつも撫でている。新宿の百人町あたりだったか、移動販売車の後ろで客の求めた魚を処理していた。最後に刺身包丁で皮を削いでいると、羽音と共に一匹の大きな蠅が面前に飛び込んできた。咄嗟に包丁を持たない左手で払おうとした。払おうとしたけれども、浮かしていた包丁の刃を下から撫でるように薬指を這わせてしまった。一瞬だった。痛みを感じたときは遅かった。鮮血が俎板に散り、急いで抑えたが傷を覆いきれず血は噴き出した。客は驚いていたがどうしようもなく断りを入れて帰ってもらい、ペーパータオルまるまる一本使って急場を凌いだ。もうその後の営業ができる状況になかった。実はその日、家に帰る前日だった。その年は何とかお盆に家に帰ろうと中心者に了解を取っていて、その前日の出来事だった。その後どうしたのか、どう処置してどうやって広島の田舎の実家まで帰ったのか覚えていない。帰った夜の激しい痛みは覚えているが、どうもそれまでの記憶が飛んでいる。傷は骨まで届いて口が開くほどの大怪我だったが、どうも病院に行けば家に帰れるかどうかわからないと思ったらしい。傷口を包帯で強くぐるぐる巻きにして、その怪我を報告せずに帰ったのだと思う。内緒にしたかっただけに記憶も飛んでいる。報告したら条件の欠如を理由に帰郷を止められる可能性が頭にあったということだ。だから何食わぬ顔で挨拶して営業所兼住居を出て行った。田舎に帰ったけれども傷が疼いて久方振りの実家なのに寛げはしなかった。それから暫くして、この道を離れる為に皆が眠っている朝方飛び出すという、私としては劇的行動を取ることになるのだが、おそらくこの怪我による心境の変化も影響したはずだ。もし帰郷を取りやめて病院に行っていれば、しっかり縫い合わせてもらって治りも早かったはずだが、痛みで眠れない日々や感覚を奪われた左手薬指が残っただけに留まらず、献身以来の受動的自分が初めて能動的意志を持つ行動を取ることになった。今思い出してもあの時の蠅が実に恨めしいが、私にとっては一般に言われるバタフライ効果の起こりが蠅で始まった。

2019年5月26日日曜日

独善的では見向きもされない

日本人は表面的には信心ぶっているが、ライフスタイルとして都合よく受け入れているだけだ。しかし皮をむけば無神論者で、進化論を国民上げて教育し信じているし、敢えて宗教といわれると非科学的なものとして括ってしまう。宗教イコール新興宗教であり新興宗教イコールいかがわしいものというイメージなのだろう。確かにいかがわしい自分だったしいかがわしい団体だったのはその通りだから日本人の感覚はそれほどおかしくはない。また自分自身も独善的なところは認識できている。先天に於いて私達は独善的自我に留まっていた。親戚からは疎んじられこの世は悪の社会だとして壁を作って独自の価値観で生きてきた。心を開いた交流もないのにどうして原理という異なる言語で氏族と交わり、氏族復帰などと大風呂敷を広げることができるだろうか。原理として理解している表層的なものに囚われず、原理の本質を求めていってこそ氏族復帰、世界復帰の意識に届くのであり、霊界を動かしてこそ氏族を動かせるはずだが、独善的なことと本質は相容れないことがわかっていない。独善的だと認識される宗教のイメージを私達が壊して越えなければ世界復帰どころか氏族復帰も夢のまた夢だ。世界復帰が奇跡的に為されると信じて疑わないが、その認識は愛に立つものではなく謂わば宗教的権威に立つものであってそれは本当のところは誰も望んではいない。親兄弟、親戚に対して俄作りの人格で原理を入れようと思っているけれども、現実は何らかの実績を見せない限り見向きもされないだろう。実績に先ず屈服するのがこの世の倣いであり、そこにそれなりの人格が備わっているのは当然と思われている。私達は愛という言葉を重要視する割にはそのイメージは貧弱で、せいぜい愛の人格であって愛の実績が何であり愛の権威が何なのかを問うことを忘れている。語らずに伝道できてこそ本当の伝道だろう。愛の実績に語らせ愛の権威に語らせてこそ伝道だ。この世の宗教に対するマイナスイメージを壊さなければならないのに、既存の宗教観に留まりさらに独善色を滲ませたままでは、一生懸命活動してもサインしてもらった頁を集めるのが関の山だ。もちろん今願われている事に専念する信仰観を否定するものではないが、私の摂理への貢献は私なりにあって私の良心はそれをも願う。全体摂理と共にそれぞれが担う摂理が必ずあるはずで、そうでなければ私という個は存在してもしなくてもどうでもよく、その認識もなくて個や家庭や氏族の責任を全うできるとは思えない。

2019年5月21日火曜日

私に内在される神様

自分が一つのX存在である以上、自分のため、自分の欲望のため、自分の喜びのために生きて当然だろう。それは確かに人間らしいし、その在り様それ自体は悪ではないはずだ。でも私達は、一方で為に生きることが神様の願いだと教えられ、それは時として犠牲を伴うものだったりする。人間らしい生き方と神様が願う生き方が私の中で相反するから矛盾を覚えるし悩んでしまう。でもそれは頭上の彼方の、或いは皮膚輪郭の外側に神様を見出そうとするからそうなってしまう。為に生きて喜ぶ愛の神様を私の中に見て、犠牲をして相手を生かしたい衝動に駆られる犠牲の神様を私の中に見るのであれば、事情は全く違ってくる。私が良心に真摯に向き合えば、私の中におられる神様が私の神様として、ワタシ流の為に生きる指針を差し出し、それに従いながら私の神様が私の中で喜んでおられるのを実感するだろう。神様は私の中で、私と共に、私を通して生きることを望まれる。それこそが良心は親にまさり師にまさり神様にまさると言われた良心革命だ。その気付きを得れば、私はどんな時も一人ではないことを実感するだろう。今まで裁かれたように思い恨みにさえ感じていた数々の事柄に対しても、実は神様ご自身が御自分を裁かれ恨み、それと同時にそれを甘受する意志を差し出し、痛みを未来の子孫達を生かしたい衝動とする犠牲の意志を差し出そうとされておられた。内なる神様が悲嘆に暮れる私から新たな私を意志させて踏み出させていた。それを妨げようとする力は堕落性というサタンの力として確かにあるが、真摯に向き合う良心の力は遠からずサタンの力を凌駕するようになる。「神様、これからも私と共にいて、共に喜怒哀楽を感じ共に意志を差し出しましょう」と心の底から真摯に祈ることができれば、私の中に神様は住まわれて全てを体験され、私は神様の想い(心情)を実感する。そのように、神様を自分の中に見出した人間となるようにひとりふたりと伝えていけば、人類全ての中に神様が内在される地球になる。

2019年5月19日日曜日

嗅覚を通して

私がアメリカの生活と日本の生活の違いとして最初にあげるのは、何といっても臭いだろうか。アメリカでは鼻を通して感じる環境にはほとんどない。しかし日本での生活は嗅覚で感じるものに占められている。それは土地が狭く人と人の接近度が近いという理由もあるのだろうが、様々な生活臭を抜きにして日本の生活はあり得なかった。たまに帰国すると、日本の空港に着いた途端に鼻に覚えるものに溢れていて、嗅覚で判断する感覚が起こされたことに気付かされる。田舎に住んでいた子供の頃は更に臭いに溢れていて、土間の土の臭い、牛舎の糞だまりや枯草の臭い、茅葺屋根から降りてくる煤(すす)の臭い、祖父の強い加齢臭や母の乳臭い臭い、もちろん厠から流れてくる肥溜りの臭いも立ち込めていた。外は外で堆肥の臭いや野草から立ち上る臭い、一雨降ったあとの生臭い臭い等々、息苦しいほどにいろんな臭いを肌に感じて生きていた。視覚や聴覚に届くものより、嗅覚で捉えられるものはより私の中に入り込んで浸透していくようで、影響も大きい。それは肉的な影響というより、何とも表現しかねる内的な霊的器官に影響を受けているらしい。というのは影響が後あと残るからだ。魂への何らかの仕打ちを受けるときに以前体験した臭いがふと蘇ったりすることは何度も経験している。しかし臭気体験の極めて少ないアメリカだからこそ学んだことがあって、それがお金の臭いだ。もちろんお金自体を数えるときに感じたのはもっともだが、その臭いも様々にあることもわかり、それぞれに遍歴の過去の念の様々がその違いに表れている。そこから発して、売り上げが多い時の前触れの臭いや、逆に流れてしまう前触れにも何らかの臭いを嗅いでしまう。嗅覚というのは五感の中で最も霊的感覚に近いものだということがわかった。その意味では日本の生活は、決して良いことばかりではないが霊的影響を受けやすい生活でもある。日本の空港について外に出た時のあの優しい甘い匂いは魂が酔いそうなほどだ。それは受け入れ抱擁してくれる匂いでもあるけれど、気を許せば誘惑されてしまいかねない臭いでもある。

本質への意識を持つ

万物の木の下で一生懸命祈るのであれば、求めることだけに言葉を尽くすのではなく、万物それ自体を祈ってあげて愛してあげることにも言葉を添えてほしい。動物や植物だけではなく、先ずは身近なところから使っている箸や茶碗、仕事で用いるカバンや筆記用具、愛用の時計や眼鏡、枕やはてはスリッパに至るまで、祈ってあげて感謝をささげて愛してあげる意志を供えてほしい。物をモノとして扱う以上、口も閉ざすし感情も抱かない。だからといってその形状自体が生きて語るのではなく、形状を象徴するその物の本質が語り掛けるし抱く感情が伝わってくる。想いを投入されたある人の作品であれば、作品を通してその人の本質が語り掛けるように、すべての万物には必ず背後に(霊の)本質が存在していて、深く尋ねるほどに語り掛けてくる。そんな体験の一つもなければ霊界を語る資格はないだろう。調子に乗って夢解きをしてみたり、見えることを霊的に開かれていると自慢したり、しかしそれは見えているのではなく、訳の分からない霊に支配されて見させられていることを自覚していない。不可思議な体験の殆どは雑霊の仕業だと思った方がいい。見させられるのではなく、自らの意志で見通さなければ霊的事実は寄ってはこない。人間の背後がどれだけ複雑で、雑多な霊が沈滞する闇が深いか。そんな魂をも救って祝福を与える義務が私達にはあるが、人間に比べて万物は基本素直で真っ直ぐであって正しく主管すればその本質と友達になれる。ヘリコプター事故に遭われた御父様が語られたのは、太陽が友達だということ。太陽を同じ位相にある万物とするのは考察する必要があるが、見て認識できる存在であることには変わりなく、その太陽を友達だと言われた背景にはその感情が届いたからであって太陽の霊的本質を同じ位相として認識し感じておられたということだ。私たちが環境創造だとか環境保護だとか大それたことを口にしているけれども、この世の万物への意識や愛や主管に劣るからこそ、彼らを凌駕して正しく万物主管できる位置にはいつまでたっても立てない。

2019年5月18日土曜日

今日の想い 1037(韓国に向きながら)

何を言われようが、あからさまな嫌気で目をそらされようが、それでもとにかく全てを受け入れることだけに意志を傾けてきた。日本の食口はそうだ。言われようは変わらないどころか、ますますあからさまになっていく。それでも正しいか間違っているかは自分には問わない。自分に問うてみて尋ねてみるという意志は持たなかった。いや持てなかった。その言葉のまま受け止めた。供え物に口なしという奴隷らしき認識は信仰をもってこのかた不文律だった。罪を問われ、蕩減を問われ、清算を問われ続けて今に至っている。たとえ日本の道義にもとるとしてもそれでも願いであらばとそれにこたえてきた。足りない足りないと言われながら善人としての性格を捻じ曲げてでも従ってきた。それでも韓国に行けばあなたたち日本人はどうだと言われ、日本にいれば反日態度をとる国賊のように思われ、であっても日本人としての恩恵を国から受けながら暮らさざるをえない。そんな生活がどうして誇らしく胸を張って笑顔でいれるだろうか。そんな生活がどうして卑屈にならないだろうか。先天時代を超えて蕩減のない時代を生きているのではないのか。日本だけは違うのか。母の国でありながら母としての権威は持てないのだろうか。それは日本の食口の問題なのか。誰でもいい誰か食口のひとりでもそんな疑問を注進し続ける者はいないのだろうか。いつから魂は否定され小さくなる極限にまで収縮してしまったのか。復帰された頃は皆が燃えていた。救国に燃えて日本人としての魂の高揚に精を出した。理想は世界の理想でもあったが国の理想でもあった。日本を愛していた。そんな自分や兄弟が愛おしく誇らしかった。兄弟は本当の肉親より兄であり姉だった。

2019年5月11日土曜日

世界経済の動向は

経済システムを無理くり維持させようと、日本もアメリカも、そしてEUも、中国に至るまで、ジャブジャブに薄めてきた貨幣価値は一体これからどうなるのか。体の一定濃度の血液であってこそ健康を維持できるのであって、少しでも薄めれば異変をきたすのに、経済の血液である通貨濃度の希薄は既に危険域だ。信用の大きさと通貨体積の大きさがバランスを大きく欠いている。今は米中の関税問題が世界経済の問題として大きく注目されているけれども、本当の問題はそんなところにはない。そんなところにはないが引き金にはなり得る。とりあえず経済は信頼性に価値を置く人情時代まできたが、今回の世界バブルが弾けてしまえば一旦は物情経済まで収縮することは既に目に見えている。物情といっても基軸通貨であるドル自体が通貨濃度を薄められているので、ドルペックを取る中国元も、ドイツ銀行をはじめとして元資本がしっかり入り込んでいるEUのユーロも、ドルとほぼほぼリンクしている日本円も軒並み信頼性を失い、ドルを基軸通貨として立て直すことは先ず不可能だ。そうなると金やコモディティの信用で兌換通貨として新たな通貨を先に出回らせた者達の主管下に置かれるだろう。ここしばらく仮想通貨が取りざたされ、確かに仮想通貨の利点は国籍を持たず、ドル基軸システムのようにスイフト(仲介銀行)を介さなくても直接やり取りできるが、問題は通貨という認識が持たれず投資運用にされたために使用範囲が限られて広まりようがない。しかしこの仮想通貨システムが現物通貨とリンクして用いられるようになれば、お金の裏も表もないので裏社会は壊滅せざるを得ない。正午定着の経済システムが構築される。もしアメリカが御父母様の勝利圏を相続して天の運勢に立っていたなら、金兌換の新ドル体制を敷き、電子ドル通貨にリンクさせて世界覇権は打ち立てられただろう。しかし返す返すはブッシュの裏切りが悔やまれるところだが、ここまで来たらもはや中国の新通貨による経済覇権は現状から見た摂理動向としては妥当なのかも知れない。少なくとも流れはそうなっている。すでに中国は世界でもっとも金を保有する万物大国となっている。
第一次にできなかったので、第二次でソ連と中国が、レバレンドムーンを自分の国の王として迎え、アメリカを凌駕する国家をつくることもできるのです。-(平和の主人、血統の主人より)

2019年5月9日木曜日

先ず手を合わせて祈る

意識訓練として一日にひとつは新しい気付きを発見することにしている。そうでもしなければ一日一日が同じ繰り返しで何も残らなくなる。クリニックに送って行って、迎えに行って、朝食を取りニュースを見て、、とルーティンをこなすことだけに意識を向け、そんな感じで気付いてみるとあっけなく一日が終わってしまう。本当は新しい一日は昨日とは全く異なる一日であり、一日の中で多くの気付くべき宝物が用意されているはずなのに、それが見えなければやり過ごしてしまう。今は店を引き渡して営業の業務から解放されたが、矢継ぎ早にありとあらゆる問題が生じてそれに追われて一日を終えていた当時の方が多くの気付きを与えられていた。ある問題が生じて、いくら考えても、いくら悩んでもほとんど何も解決しない。しかしやるべき業務は業務でこなしていかなければならないわけだが、いつものように業務について足を動かし手を動かすことで問題が整理されてきて、内外の解決の糸口を与えられることは何度も経験してきた。感覚としては足を動かすことで意識しなかった内外の情報に気付き、手を動かすことで意識しなかったこうしてみようという意志が芽生えてくる。よって人間の四肢は考える頭よりも本質的な霊的感性と深い関係性にあることがわかる。最近になって祈りも変わり、以前のように両手を床につけて行うのではなく、両掌を胸の前で合わせて祈っている。一つは双合十勝日のみ言葉だったと思うが(おそらく)、左手に先天時代を掴み右手で後天時代を掴んで合わせたと言われたその感覚を相続したい思いと、明らかに両掌を合わせた方が集中できるからだ。右手と左手が意思命令に合わせて共同しなければ物は作れないように、神様の意志を中心として神様の右手であるアベルと左手であるカインが共同して作業しなければ新しい歴史の環境創造は為されない。そのように私の両掌を合わせたその場から私の環境創造が始まると信じている。右足がアベルで左足がカイン、右手がアベルで左手がカイン、歩くときは左足と右手、右足と左手と交互になる意味、手を組んだ時右親指が上になる人と左親指が上になる人との違い、手のひらの指を親指から付け根、先端、付け根、先端と数えられる意味、等々人間の四肢に関するみ言葉はそれが霊界と直接関係があるからされた話で、その意味をひも解くと霊的感性がより明るくなるはずだ。人間の表情を見れば魂の在り様が伺えるが、四肢の在り様、特に手の在り様や動きをよく見れば霊的出生が見えてくる。

2019年5月8日水曜日

天情時代とは?

物から人へ、さらに人から天へ、というのが摂理のベクトルだ。御父様は、物情時代から人情時代、人情時代から天情時代と言われた。お金に関していうなら、お金そのものへの信頼性から人間への信頼性にお金は依拠している。お金という現物が先立たない限り人物への信頼性は二の次だった時代から、現物が先立たなくとも人物への信頼性で信用が取れてお金が用意されるという、要するにクレジットカードの出現はその人物への信頼性に依拠されてお金を出す出さないの判断が主管される。それが物情から人情ということだという仮定に自分は立っているが、更に天情への信頼性とは、という疑問がある。今の時代、経済も金融も人間への信頼性がなければここまで発展することも、やり取りの自由解放もなかったはずだ。しかしその信頼性がシステム化されてしまい、システムで経済も金融も動いていてシステムが複雑化されればされるほど基にある信頼性の本質が薄れている。日本はバブル崩壊から財政出動、金融緩和という仮の信頼性を大量に差し出し続けて今に至っている。システムはそれで動き続けるが既に信頼性の基盤は失っている。アメリカは複雑になったシステムの暴挙がリーマンショックを引き起こした。本当はリーマンショックどころか全ての銀行が破綻するほどの巨大爆弾を抱えていたのだが、FRBが紙切れになった銀行保有の債権を一時的に額面のまま買い取ったことでシステム破壊は免れた。そこに投入した仮の信頼性もまた莫大だ。要するに日本もアメリカも信頼性という本質は見失っている。システムはリーマンショック以来株価を3倍に戻しているが、信頼性を失ったバブルであることは明らかだ。これが遠からず爆発して恐ろしいほどに収縮する。これを解決するのは次元を超えた全く新しい経済と金融の秩序だ。おそらくそこに天に対する信頼性が組み込まれるか、あるいは天情という信頼性による組み直しなのかが予想される。摂理に貢献する自分であれば、その神様の地上への手の入れように何とか加担したいと思うだけで、どういう段階を経てどういう方法でというのは今現在全くわからない。

食口にみるお金に対する価値観の貧弱さ

どうしてお金を得たいと思うか。それはお金の中に何らかの価値を見出しているからで、だから得たいと思う。しかしその価値はお金という衣服を着ているだけで、未来永劫同じ衣服を着用している訳ではない。今ベネズエラのハイパーインフレは手に負えない状況だ。すでに年率1000万%を超えるインフレ率だというマスコミもいて国がどうこうできる段階をとっくに超えている。2008年に1000分の1にデノミを敢行し通貨単位の呼称も変えて整理したばかりなのにこの有様だ。年率1000万%と言うと、1だったものが一年経ったら10万払わなければ買えないという状況だ。1なる通貨単位を纏っていた価値が10万なる通貨単位を纏っている訳で、通貨価値がどんどん冷え込んでしまって10万枚も厚着している状態と言えば分かりやすいだろうか。営業しながら日々お金に携わっているとその価値の内的霊的なものが見え始めてくる。売り上げとしてお金をいただいても背後の本質的価値を見なければ遅かれ早かれ流れていく。流れないように手元にしっかり握りしめていても紙幣という抜け殻を残して価値だけは消え失せてしまう。だから常に本質的なものを見ようと努力しなければならないし、そのように関心を持つことそれ自体が愛する意志を差し出したことになる。そうであれば逆も言える訳で、1ドルしか手元になくてもその1ドルに十倍も百倍も関心を持ち本質的な背後の存在に語り掛け愛そうとするとき、その1ドルは1000ドルにも2000ドルにもその価値を呼び寄せ働くようになる。(断っておくが、1ドル紙幣を神棚に上げて百倍になるように祈祷しろと言っているのではない)そう言う対し方、すなわち愛し方を学べばどんどん寄ってくるようになる。お金がお金を呼ぶというのはその内的霊的価値を認識した者が実感する言葉であって、下心のある者のギャンブルや投資に当て嵌まる言葉ではない。お金に対して先天時代の私達の至らなかったことは、その本質的価値を求める姿勢も体質もなかったために、信仰的苦労はしても万物に対する苦労をしていない点が一つとしてあげられる。ただなけなしの小遣いだけもらって歩んだから苦労してきたと言うけれども、それは生活への忍耐という苦労ではあってもお金や万物の本質を問う苦労とは異なっている。借金やローンに追われる訳でもなかったし、私の理想に向かい達成するためのお金を稼ぎたいとも思っていなかったはずだ。資産もなければ負債もなかった、あればそのまま献金して我関知せず、ということはお金への喜びも悲しみも、そして恨みもなかったはずだ。

疑うことすらなかった観念をまず壊すこと

私たちは復帰という言葉を知っているし、またよく使う。氏族復帰、人材復帰、蕩減復帰に心情復帰、そして万物復帰。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰というものもある。万物復帰をいうと、売り歩いてお金を稼ぐかのような使われ方をしてきたものだから、その本質を求めずにきた。しかし万物という意味も、復帰という意味も、合わせた万物復帰という意味も、霊的に尋ねながらその本質に近づかないと、勘違いしたまま万物復帰せずに地上生を終えてしまう。復帰とはサタン主権下にあるものを再び神側に帰することをいう。しかし私自身が神側に復帰された存在でなければ、私が私を中心として復帰という言葉を使うことは許されない。要するに復帰されない私が私自身を含めて所有観念を抱くことは反復帰だった。私を介したとしてもそれはただ素通りしたに過ぎない。しかしそれは先天時代の認識であって、後天時代は180度異なっている。後天時代は所有観念を抱くことと復帰することとは相通じさせることができる。今は蕩減のない時代であり、罪を犯す以前の状態に霊的に復帰されているからだ。復帰されて位置を取り戻したからこそ、祝福の権限を与えられて誰をも祝福できる。万物復帰もそこに私の意志を介して万物復帰がなせる。為せる立場にあるのに、私達の意識が先天時代の信仰観念から抜け出せないままでは、相も変わらず万物復帰は金を稼ぐことという単純な認識から抜け出せない。新しい時代は神様主権の時代であり、それは真の愛による主管を意味している。では万物主管として真の愛によるその意味は何だろうか。万物にはそれ自体の絶対的価値が存在しているはずで、見て触れる万物は絶対的価値の表現に過ぎないのであって、その形状を手元にしても主管しているとはいえない。しかし万物の内的霊的側面に意識の光を当て続けて絶対的価値に触れたとき、初めて万物の意味も、復帰の概念も理解できるようになる。先天時代、殆どの時間を営業に携わりながら訓練され、学ばされ、それを踏まえて行動してきた内容がある。私にとってはそれこそが宝であり、その本質的把握こそが摂理の牽引に貢献できるものだ。