2022年7月27日水曜日
今日の想い 1168
今日の想い 1167 (教会問題も同じ村社会からくる独善性が原因)
今回の件では教会だけがターゲットではない。食口は勿論のこと、二世であろうが元食口であろうが親戚であろうが、また議員であれ誰であれ少しでも関係があれば批難の対象として見られるということだ。坊主にくけりゃ袈裟まで、というのが日本のいじめ社会だ。そうであるのに二世だとか元食口が、マスコミに声をかけられるままにコメントを出しているのはどういうことだろう。反教会であれば仲間だとでも思っているのだろうか。そんな単純な思考判断で底深い陰険ないじめ感情を理解はできないだろう。実は日本のいじめ社会と、日本の新興宗教と言われる団体の独善性は、共通する同じ原因として奥深くで繫がっている。個としての自我が立っていないという原因が根底にあって周りに合わせていじめるのであり、周りに合わせて独善的になっていく。原理用語を使うなら縦的に見ることをせずに横的に回りだけを見ている。日本の教会がこんなになったのは日本だからであり、他の国の教会ではあり得ない。要するに今の日本に神宿る霊として育ち、そして立つ土壌は未だに耕されてはいない。少しでも育とうものなら端から芽を摘まれてしまうのが現状だ。真摯に神を尋ね、霊界と地上界の在り様を研究し、そして霊の育成に向かい合うには、御言葉は最適で最高のプレゼントだったはずだ。教会は数値だけの献金よりも数字だけの伝道よりも、内的霊的教育機関としての役割を果たすべきだった。しかし日本の土壌に巣くう村意識という闇の風呂敷の化け物に覆われたまま、それを突き破って天を視野の向こうに掴む精神は挫かれてしまった。日本のこの化け物こそが敵であり、日本が未だに独り立ちできないのもそのせいだ。日本人も、日本の食口も、この化け物が全く霊視できないらしい。
2022年7月22日金曜日
今日の想い 1166
食口達にとって教会が何を言いどう行動するかも大切なのかも知れないが、大激震が外的地震ではなく内的な地震として起こっているわけで、御母様の言葉こそが全食口には必要だろう。すぐにでも口を開かれると思って待ってはいたが、依然音沙汰はない。御母様に絶対的帰依を信条としている食口であれば、尚更待ち焦がれているに違いないし、そのことを知ってもおられるはずだが、黙しておられる。こうなるとそれぞれが自らに問い自らで考え、主体的能動的行動を取るしかないと言うことになる。救援摂理を担う神霊からすれば、摂理進展に寄与しない群れは外されて当然だろうし、ある意味アボジの「教会時代は終わった」という御言葉は外的圧力からではあっても取り敢えず成就したことになる。食口がこれからの摂理を担う位置に立つかどうかは帰依のベクトルを良心に向かわせることができるかどうかであり、その方向転換、即ち霊的な磁極転換できる自我を備えることができるかどうかにかかっている。そして霊的な磁極転換が地上の磁極転換に耐えうる人類としてサバイブする。この、今直面している試練を乗り越えてこそ真の父母の勝利圏を相続した者として天が認知するはずだ。食口の希望は外にあるのではなく、内面世界、更には霊的世界にあるのであり、その原因世界で掴んだもので外的世界を牽引していく。アボジが残した御言葉は豊穣の海だ。ただ外的に字面を追うのではなく内的な意味での訓読でこそ、豊穣の海に至る河の流れ、御言葉の流れを私の内外に用意できる。
2022年7月21日木曜日
今日の想い 1165 (村社会日本)
日本のいじめ社会ここに至れり、という感じだろうか。教会の独善性も確かに度を越えているが、日本の教会叩きも度を越えている。日本がいじめ社会であることは、村八分であることと関係していて、要するに秩序や掟に従わない村人は他の村人全員が申し合わせてのけものにしていく。マスメディアの教会叩きは本来この事件の真実を見ようとする意志を否定してまで、以前から気に入らなかった教会と関係があることにだけ焦点を充てて感情剥き出しにいじめまくっているだけだ。真実が何かは依然無視したままだ。報道はどちらかに肩入れや貶めをすることで報道本来の役目は果たされず、感情のはけ口でしかなくなる。この事件の真実に近づこうとする意志が少しでもあるなら、もっと光を充てるべき事柄はあるはずだ。以前に記したように後ろから打ったはずなのにどうして前の首元に銃痕があったのか、司法解剖の結果はどうだったのか、銃弾は何故公開されないのか、どこからも狙われやすい位置に立たされたのは何故か、等もっと見るべき事柄はたくさんあるのに、犯人と思しき人間の動機背景、それも教会が全て背景にあると断定して報道している。日本に帰国して、やはり日本は変わっていないと溜息をつく次第だ。教会どころか宗教そのものを危険なものとしてレッテルを貼り、恰も無神論、無宗教こそが正しいと言わんばかりの風潮は他国他民族から見て奇異なのだが、奇異を通り越して信教の自由を侵される危険がそこにある。一方では社会が国を挙げて特定の団体をいじめるのは善としながら、その一方でいじめ社会は無くそうという笑えない矛盾がこの国には当たり前のように存在している。
2022年7月15日金曜日
今日の想い 1164
摂理を先頭に立って担うべき立場であったことは言うに及ばない。しかしそうでありながら脇が甘いどころか裸同然の組織だった。敵も多く作ってきたし狙われどころが多すぎた。自分すらも守れないのにどうして摂理を担うことができるだろうか。そして今の混沌とした世界情勢の中で、安倍元首相も敵は多かったはずだ。関わった側からの言葉として声を大にできるとは思わないが、敵の多い教会と敵の多い安倍元首相を関わらせて仕留めようとする或る意図があっても不思議ではない。あんな簡素な、銃とも呼べないもので、生命の危険に及ぶ一発が放たれ、嘘のように命中し悪神の業が見事に働くとは未だに信じられない。そんな疑問を抱く者が数えるしかいないことはわかっているが、コロナ報道、ウクライナ報道と見てきて、マスメディアは真実とは程遠いことだけは確信できた。この事件にも陰謀が関わっているのでは、という疑問が私の中にあることは否めない。余りにもイメージの悪い教会を関与させれば、行動に若干の疑問はあったとしても教会叩きに目一杯舵を取れる。メディアの教会叩きに国民の目を釘付けにしている間に他の関与があるのではという疑問は消し去られ忘れられる。もしそうであったとしても、否そうであるなら尚更、摂理度外視の教会体質を悔い改めるべきだろう。皮肉にも、多くの食口を破産させ生活苦に追い遣り、祝福家庭としての誇りも失うほどに絞り出してきた金は、アベノミクス、コロナ給付金支援金、更には円売り加速の日銀金融介入で、円の色もなくなるほどにジャブジャブに薄められている。
今日の想い 1163
赤子は大泣きしながら眠りにつく。どうにもひと騒ぎしないと眠りにつけない。目覚めと眠りの間には深い溝があり、意識と無意識の狭間に横たわる。しかし意識から見ると底知れぬ闇の深みに入っていくのであり、意識の執着が赤子をひと騒ぎさせてしまう。意識は見えない自我のこの世の在り様であって、でも自我の食物は無意識圏である霊界に訪ねなければ補給できない。意識でこの世を経験し、経験による果実を引き換えにあの世で自我の食物を得る。成長し大人になってくると、この深い溝を容易に渡り、そして容易に引き返す。しかし寝苦しくも眠れないことも多々ある。魂を揺るがすほどの経験をその日にするとそうなる。この世に慣れていない赤子のように、魂の度量を超える経験は、重すぎて深い溝の下り上りを背負って超えられない。数日を超えて眠れない日々を費やすこともある。この世の経験が心地よいものとは限らない。家を建てるのに隠れている強固な土台が大切であるように、魂を打たれ強くする切なく悲しい経験、痛くも苦しい経験もまた、自分の霊界という私の家を立派に用意するために大切だ。打たれる時には抗わず自分を苦しみに晒すしかない。この悲しみが友だ、この苦しみが友だと言い聞かせながら晒すしかない。アボジがどれほど日本の食口を苦労させてきたか、御自身がもっとも解っておられたはずだ。それが正しいかどうかが地上の判断だろうけれども、しかし神の判断、天宙的判断、霊界の判断はこの世的に正しいかどうかではなく、創造歴史以来流れて来た神の心情に応えられるのかどうかだろう。しかしだからと言って私達の今までの歩みを正当化すべきではない。私には私の意見がある。アボジに一言の提言もできないほど、日本食口は子女の位置にも立てず卑屈だったのか。別の言葉に言い換えると万物に劣るほど罪が大きかったのか。教会が異常に万物を捧げる要求を始めた時点で、社会の許容を超える問題が起こることは容易に想像できたはずだ。こんなになるとは思わなかった、とは言わせない。どんな底辺の食口であっても解っていたはずだ。結局追及される迫力に押されるまま、その時その時さえ良ければと、誰も本気で摂理への責任、霊的生命への責任を負った者はいなかったと言うことだ。少なくとも現時点に於ける結果はそうだ。子女の位置に立てず、万物に劣るなら、今回の結果は当然だし差ほど痛みも覚えないだろう。これが原理的にどういう意味があるのかと、そんな事しか考えないし心の傷も負わないのだろう。母の国なぞ聞いて呆れる。
2022年7月13日水曜日
今日の想い 1162
会見を見てしまった。見ないでおけるものならそうしたかった。冷たい会見だった。板挟みの状態で、感情を見せないように見せないように、押し殺した苦痛を隠そうとすれば冷たい会見にならざるを得なかった。そしてその冷たさを全食口は同じようにひきずりながら、対社会に応対していかなければならない。元首相の喪中が始まったように、私達の中に息衝いていたものも喪中期間が始まった。全ての言動、行動が差し控えられ、外からの物言わぬ圧力で強制的に総括を余儀なくされる。本来なら内面から総括されて主体的に刷新を図るべきものを、強制総括されることになる。食口は生きて死を経験する。喜びの昇華ではなく、地獄の死を経験する。日本食口が、さらに日本人が、死を通過し乗り越えることで主体性自我を復帰する。そうして初めて新しい次元で生きる。三日間の暗闇がその通り三日なのか、それとも三年なのか、はたまた三段階なのかわからないが、暗闇という死を通過するのは避けられない。コロナを通過し、ウクライナ戦争を通過し、人間は通過しているうちに慣れてしまう。人間という現金な存在は良くも悪くも慣れてしまう存在で、暗闇の中にあっても慣れてしまうだろう。だから国民総批難を被弾している今の痛みこそが大切で、痛みから逃げずにそのままに甘受しながら、蕩減期間を経ることで、私に語り掛ける良心存在、地獄の悲鳴の中から芽を出す新しい希望を必ず見出すことができる。それがないのであれば、神と神霊は存在しないと言うことになる。
2022年7月12日火曜日
今日の想い 1161
皆自分のやりたいことを先ずやればいいと思う。一人の人間として生まれて来たなら先ず一人の自分として生きること、自分のやりたいことがあるならそこに情熱を注ぎ込めばいい。個人として成長途中でありながらも、枷を嵌めることに汲々として、それが人格完成に向かうとはとても思えない。踏み外さないこと?自分も何もわからないから自分にも子供にも枷を嵌めようと一生懸命だった。独善的でありガチガチの教条主義だった。おそらく食口の大多数はそうだろう。でも枷を嵌められて生きる存在が人間ではない。人間性とは個々の自由が担保されているから出てくる言葉であって、枷を嵌めることを良しとすれば誰かの言葉による奴隷でしかない。人間性から発せられる発展性、創造性は枷に嵌められていれば奪われたままだ。御言葉は何をもって絶対か、その字面でもないしその解釈でもない。御言葉は受け取る側の器が小さいにも関わらず、そのまま受け取ってしまえば独善的であって危険だ。先ず御言葉をあらゆる面から疑うことから出発し、それでも否定できない本質が炙り出され、そしてその本質は大概のところ霊的意味合いに収まる。社会には様々な問題がある。例えば親が子を殺し子が親を殺す。この問題を知ったかぶって原理で解釈し理解したつもりでいる。親の愛、神様の愛がわからずサタン的自己中心がそうさせると、、。単純過ぎないだろうか。そしてそう教えられて本当に解決するだろうか。結局は取り決めで雁字搦めにして更に蓋をして表面的に繕う。しかしそれは実のところ何の解決にもなってはいない。御言葉の本質と共鳴している各個人の本質である良心でしか解決はないはずだ。そして良心が個を直接主管するまでに力を得るには、何代も経ながら難度海を通過しなければならないだろう。私は聖霊体験でこの道に入ったのであって、御言葉で感動した経験はない。しかしアボジの最終結論である良心宣言は身が震えるほどに感動した。そして静かな感動は今の今まで続いている。
2022年7月11日月曜日
今日の想い 1160
いよいよ大混乱時代に突入する。教会の上っ面だけを綺麗にすることに翻弄してきたのだろうが、もはやそんな他人の目を気にする余裕もないほど、食口も国家も人類も、大波の中で生き延びることを余儀なくされる。財政は破綻し日本経済はとことん叩かれ砕けるだろうし、当然世界も国の体を崩さねばならないほど大波に浚われる。先ずこの夏を過ぎたあたりから円安インフレ、資源高インフレ、食料不足インフレが三つどもえで日本を襲う。既に世界の財政不安国では破綻問題が起きているが、先進国と認識されている国々であっても資源食料を輸入に頼っている場合が多く、更なるインフレと供給不足で立ち行かなくなる。既に世界は実体経済を超えて金融経済金融世界という欲望の化け物に支配されて久しい。この化け物退治が為されれば影響下にある全ての社会は世界一括制裁となる。市場という市場は存在意義を一瞬で失う。しかし人類はその中にあっても生き延びていかなければならない。最悪、自足時給を覚悟すれば、とはなるが、私の妻を含め医療保護を受けなければ生き延びることもままならない者も多くいて、そう簡単に括れる話ではない。生きたいと思っても与えられ生かされている生命であり、いつ召されるかもわからず宿命に任せるしかないという人間の本分をわきまえ、諦めではなくより高次元への供犠(アセンション)を喜びとする宇宙意識、天宙意識の私を用意する必要がある。その意味で御言葉の本質を捉えた食口こそ天が必要としているのだが、それだけの意識を備えた者、準備された者が一体何人いるだろうか。
2022年7月10日日曜日
今日の想い 1159
有り得ない、起きてはならないことが起こった、との言い方は日本特有の言い方に違いない。世界は何でも起こり得るというスタンスが当然であり、事実何でも起こってきたので、国家統治にはあらゆる仮定を想定して危機管理がなされる。アメリカ社会が銃社会であるのは、各市民の自由の権利を保障するなら権利侵害に抗うという危機管理も自らが請け負うのを保証するためであり、従って銃の保持も当然としてあるという考えからだ。自由と平和が何らかの抵抗武力で守られるのは当然であって、日本に非武装を容認する言論が存在しているのは他国からすれば不思議極まりない。奇しくも危機が身近に迫る中でやっと自衛力戦闘力の見直しが図られる現状があり、国民意識に訴える口火を切られたのが安倍元首相だった。今回の犠牲を決して無にせず日本の意識(特に危機意識)の大転換をもたらすものとなるべきだ。これで目覚めなければ更なる犠牲が供されることになるかも知れない。マスコミは犯人と教会との関連を大きく報じるだろうし、更なる注目と批難が向けられるのは当然甘受しなけれならない。本来は救国に立ち日本の平和ボケ、国難に対する危機意識の欠如を憂い、教会も摂理本来の命を受けて訴える活動にこそ専念すべきを、摂理を無視した上部の要求に応える手段のみがいつのまにか目的化してしまった。本来の使命を全うできないのであれば、何某かの形で関与することになるのだろうが、それが悪鬼として反面教師的に関わってしまうという愚かさを露呈してしまった。名前をすげ変えただけの団体はこの際解散すべきだろう。教会時代は先天が後天に代わった時点で既に終わっている。
2022年7月7日木曜日
今日の想い 1158
初対面でありながら、私の差し出す手を嫌がることもなく、しかし幾分躊躇を覗かせながら受け入れた。表情こそぎこちないものの、視線だけは私から離すことはしなかった。その最初の出会いから一週間余り、何の準備もなく彼女との生活が始まることになる。長旅の疲れからか、翌朝彼女が目覚めたのは9時を回っていた。見慣れぬ部屋を物音も立てずに抜け出し、私と妻がいるリビングの入り口で立ち止まっていた。視線を落として朝刊に目を通している二人だったが、入り口で立ち止まっているのを最初に目にしたのは妻だった。泣くでもなく声を発するでもなく、右手で頭をかきながら結構な長い間その場に佇んでいた。彼女なりに状況を把握しようと試みたのだろう。しかし覚悟を決めたのか、肩を上下させて大きく一息すると私と妻が座っているソファーにおそるおそる近づいて来た。そして妻が手を差し出すと、そのまま手の内にゆっくりと抱き寄せられた。初日は全てに於いて素直だった。抗う様子を見せるでもなく、かと言って必要以上に愛想を振りまくでもなく、淡々と言われるまま従った。オムツ替えと着替え、朝ごはんとミルク、そうやって落ち着きを見せると、片付けた布団に上ったり下りたりと一人遊びを始めた。親の不在でも泣き叫ぶこともないし、物を投げたり暴れることもなかった。一歳にしては落ち着いたものだと感心もしたが、幾分慣れた次の日からは主張もするようになったしけたけたと笑うようにもなった。嫌われる想定でいたものだから、素直に抱っこさせてくれるだけで愛おしい。祖父としての私の感情は、抱きかかえて小さな重みと伝わり来る体熱を受け取った時点でマックスになった。孫は可愛いと誰もがいうが、この手に抱いてみると、ただの可愛いでは言い表せない感情が一気に押し寄せた。見る物全てに関心を持ち、手にする物一つ一つを持ってきて私に手渡す。段差を上がったり下りたり、大きなスリッパの片方を小さな足に引っ掛けて歩いたり、そんな他愛もないことが面白いらしく、その都度振り向いて体を揺らして喜びを表す。遊び疲れて愚図ついて来たので抱っこしてミルクを与えた。哺乳瓶を吸いながら腕の中で寝息を立て始めた。私は上体を幾らか倒し、彼女をうつ伏せにさせた。その温かみを胸の上に感じながら、この平安が永遠に続けばいいと思った。この子の為だけに生活を翻弄される一週間を過ごし、そして明日は出ていくと言うその前日、この子が離れていくと思うと居たたまれなくて、感情を制御できない自分に戸惑った。決められた形での祝福に拘り、少なからずプッシュした時期もあった。お互いに好きだという感情だけで一緒になっても長続きしないものだと説教もしてみた。手を上げたこともあるし落胆したことも多々あったが、こうして孫を見せに帰りこの手に抱かせてくれたことで全ては帳消しになった。帳消しになるどころか誰よりも親孝行者だと思った。私は本当に幸せ者だと思い、親なる神様に感謝した。
今日の想い 1157
人類にもし堕落事件が起こらなかったら、と考えてみたことがあるだろうか。先ずそんな大仰なことから始めるのではなく、自分のことで言うと、もし妻が一生を左右するような病を患うことなく家庭生活を送れていたら、と考える。そうであれば、その時与えられている聖業に没頭し続けただろうし、自分で主体的に将来的な方向性を立てることはなかったはずだ。献身とは心身共の帰依であり、そこには自分の想いも自分の考えも自分起点の行動もない。現在も続けている献身者がそうであるように、与えられた立場や環境が全てであって、そこから逸脱することは帰依を裏切る、すなわち信仰を捨てることに繋がる。よって献身者には主体性という言葉はない。全てが与えられた受動的なものであり能動的に手にすることはない。私のこれまでを振り返って思うことは、献身するまでの歩みと献身してからと、更には自我を取り戻してからとはそれぞれその景色や色合いが全く異なっていることがわかった。献身するまでは地を這うだけで人生の色合いなぞ感じたこともなかった。しかし信仰を持ち献身してからは、限られた範囲であるけれども翼を与えられて立体的な人生の輪郭が読み取れたし光と影も読み取れた。しかし妻が病に侵され、これからの人生設計を自分が立てる必要性を覚えると、それまで全てを帰依していて備えなかった自我を取り戻し、人生の枷が取り払われ、自由度が増すと同時に立体的輪郭のみならずそこに色合いをも覚えるようになった。それは与えられた翼ではなく、自らが翼を用意しなければ見えない景色があるということだ。おそらく他の食口も、献身状況から何らかの障害を経ることで全帰依から自我を取り戻す過程で、見える景色が異なったという者も多くいると思う。人類の堕落事件を個人的事件から見るのは無理があるとは思うが、おそらく神様は堕落事件を経て、神様自身の在り様はそれまでとは大きく変わったはずだ。もう少し加えると事件後の復帰路程の様々な段階を経て、その段階毎に味わい学んだことで開かれた世界は、今の人類全体の人生観死生観神観に表れている。堕落は神様にとって忌まわしい事件だったかも知れないが、それがあって今の神様がおられる。通過すれば全ては愛であったとアボジが話されるように、堕落事件があり失った愛を復帰する過程を通過すれば、それはまた新たな愛の関係創造であったと神様は言われると思う。