以前と比べて信仰的、或いは道徳的規範は随分と崩れているのはその通りだが、同じ行為でもそこに罪の意識をどの程度覚えているかは一昔前とは隔世の感がある。婚前交渉を持って罪悪感を抱くのは極めて少なくなっている。お互いが恋愛感情を持てば当然の成り行きとなる。私達の信仰の観点から見るなら、罪は罪であるのに罪悪感を抱けないことがサタンの罠だと言うことになるが、果たしてその論理が正しいかどうかは疑わしい。私は罪悪感を抱かなくなった、即ち恐れを抱かなくなったこと自体が既にアダムエバに関するサタンの罠が今の時代に当て嵌まらなくなったと思っている。何故なら恐れの感情こそがサタンの思うつぼだからだ。LGBTも含めて人それぞれに様々な愛のカタチがあって、神がそのカタチを通して愛を受け取られるかどうか、それはフリーセックス、性の自由という本能のままというよりは、愛の自由だと思う。自由な愛のカタチをして神様を開放する、という言い方が当て嵌まるかどうかと言うことだが、今までの神観だと、すなわち昼の神様だと受け入れられないのかも知れないが、果たして夜の神様という神観からしてどうなのか、夜昼の神様からしてどうなのか、という話だ。性が先か愛が先かという観点より、性と愛、どちらがより重要視されるかという話だと思う。性というのはどこまでも形に拘る地上の事だと思うが、愛は形を超えた、地上を超えた、次元の壁を超える概念だ。愛の為の性であって性のカタチに縛られる愛であるはずがない。
2023年5月31日水曜日
2023年5月23日火曜日
逍遥から本殿に向かって 3.
教会の常識から言えば荒れ放題の社会であることはわかる。婚前交渉は当然であり高校生で既に経験済みも大方であり、バツ2とか3とか離婚も普通であり、かつては言及することも憚られた同性関係も大っぴらに公開し、そうかと思いきやその逆で一生結婚しないとか交渉を持たない者も多くいて、どちらかと言えば結婚しない方が多いような気がする。要するに性についても一方では荒れ方もマックスなら、その一方で誰一人とも交渉を持たないという両極端な振れ幅になっているのが現実だ。或る決められた年齢層で必ず結婚し、どれほどお互いにいがみ合おうが最後まで添い遂げるという枷が嵌められていた。その時代のパターンを取り敢えず取っ払って、それぞれの自由意志に任せた結果がその振れ幅であり、それをサタン的と言いたい食口の感情は理解できるが、私は絶対性に向かう摂理的段階だと踏んでいる。要するに表面的な形に対してサタンが讒訴する時代は既に超えていて、形はそれぞれであったとしても心情に通じる内的経験を重要視する時代に入っている。別の言葉にすれば、今までのように神が願っていると信じる在るべき形にこだわっても、既にその決まりきった在り方で絶対性に辿り着くかどうかは疑問符が付くということだ。私達は改めてアボジが語られた絶対性について、何の信仰的イメージ、要するに戒めや取り決めという教条的イメージをちゃらにして白紙から問い直す必要がある。問い直すに魂全体で問い直すのであって、決して論理だけで問うのでもなく、好き嫌いや受容できるかできないかの感情だけで判断するのでもなく、体の本能に任せるでも牧会者の言葉を鵜呑みするでもなく、知情意が一体であってこそ神の対象となって絶対性の本質に導かれるはずだ。それは同時に霊的本質であるはずだ。
2023年5月20日土曜日
逍遥から本殿に向かって 2.
修練会を何度も招集されながら、あれほどにアボジが教育された生殖器の話や絶対性の話であったのに、私達の受け取り方というか触れず語らずのガードが最も強いものだがら、アボジの意向は殆ど地に落ちた格好になってしまった。どうしてかというと教育以前と以後と比べてみて食口間の性に対する認識も意識も何ら変わらず、性に対して同じ様な罪意識を持っているし、触れず語らずの態度も以前と変わりない。絶対性という新たな言葉も、お互い生涯を通して貞操を守りぬくという以前からあった概念と同じ扱いをしており、その言葉の真意を殆どの食口は受け取っていない。以前の戒めをより強く言い含められた言葉だとしか思っていない。私はこの絶対性という言葉は人類が堕落圏にあるうちは隠されていた、しかし勝利されて既に堕落圏を超えた時代を宣言されたが故に、人類に与える新たな福音として天から差し出された至高の概念を持ち合わせる言葉だと私は思う。旧態依然の戒めという戒めで締め上げる宗教観ならキリスト教で十分なはずだが、教会はそれをさらに強化している。本来、宗教を超えるというのであれば戒めを強めることとは逆のベクトルを取るべきだと思うのだが、今の教会は戒めと縛りで雁字搦めで宗教の忌み嫌われる部分の集大成を見るような思いだ。この世の人達と違って祝福を受け血統圏の異なる私達は神の戒めを守り通せる、という態度の何処に理想と希望を見出したらいいのだろう。人々は私達を、戒めという監獄に囲まれ自由を失った悲しい人たちという目で見ている。それをどんなに原理の論理でまくしたてても、その魂で見せて誇れる内外の歓喜に辿り着いた訳でも垣間見た訳でもなく、なんの説得力もなくただただ憐憫の表情を浮かべられてしまう。そう思うと、左派の連中や反教会の人は私達の影響力を信じているからこそ感情を込めて闘いを挑んでくるわけで、哀れに思われるよりは余程人間としての扱いを受けている。アボジが霊的精魂を費やして絶対性という秘中の概念を天から降ろされたにも関わらず、食口誰一人としてその貴重性重要性に気付かないとするなら、本体論の中核である絶対性は誰が解き明かすのだろう。
2023年5月17日水曜日
逍遥から本殿に向かって 1.
こういう直接的な内容を記して残そうかどうか随分悩みもしたが、実に下品で不品行で不信仰だと思う食口がいても当然かもしれないが、それでも真理に向き合うために敢えて記すことにした。今回の件も私の良心は私を押し出している。それを否定することはできない。もしたとえ地上天国なるものが完成し、人類のいっさいの罪が清算されたとしても、真昼間に陰部も隠さず闊歩するような社会になることはあり得ないし、人前で堂々と愛し営む社会になることもない。性は夜の神様の管轄だからだ。性に向き合うことは夜の神様に向き合うことになる。アボジの晩年の生殖器教育を受けながら、気恥ずかしく暗い笑みを浮かべるしかない居心地の悪さをアボジは察しされたのか、愛の本質そのものの話をしているのにその態度はなんだと語気を荒げて注意されたのを覚えている。それほどに生殖器は聖であり営みも聖なのだが、営みに情欲が入り込むことでサタンが関与していると暫く信じていた。一方で情欲を抱かない営みなど何の歓びがあるのだろうとも思っていた。多くの一世がそうだと思うが私は妻以外の女性を知らない。原理と御言葉と、そして数限りない修練会で厳しく叩き込まれた信仰教育の結果として、正直な話知りたくない訳ではなく知ることができない。男の無邪気かつ直接的突進的な性として妻では飽き足らず、男の触手は五感で得られるあらゆる媒体へと延びてゆく。多くの場合視覚刺激をまさぐりながらじわりじわりと延びてゆく。普通の男性であれば早急かどうかはそれぞれだとしても、視覚から触覚へと進むのは自然だろう。もちろん妻以外の女性の相手を用意することは先ずない。その代償として自分への慰撫に留める。死への恐怖観念がそうさせて信仰を刷り込まれた自分を超えることはない。実際の相手との交渉は私を奈落の底に落とさせる。その感覚があるのは普通に妻との交わりでも経験することであり、以後のあの脱力感であり性を忌む遺棄感だ。それが負債感と罪悪感で幾倍にも増発されて転げ落ちる奈落の底から這い上がれるとは普通の食口であれば先ず思えないだろう。教会に行かなくても献金はしなくても、それくらいであれば自分なりの理屈や言い訳を立てて、負債や罪悪感を抱かないよう主管することはできても、こと堕落の本命である性についてとなると欲するままに行動してその後の自分をとてもとても主管して立て直すことなどできはしない。しかし、だからこそなのか情欲と性欲は常に自分を強烈に駆り立てる。私はここ数年を通して或る仮説を立てることにした。それは信仰の最大の戒めを戒めに終わらせずに、果敢に立ち向かい性の観を立てることで冒頭あたりで記した夜の神様に出会えるという仮説だ。私としての神様に対する公的命題は様々な摂理的活動に生きてきて既に果たしたと言えるのだろうか。とてもそんな結論は出せないと思える私は今、導かれてこの路程に参じてきた最大の理由が、実は先天の終わりに唐突に話された「昼の神様、夜の神様」の解明ではないだろうかと思っている。
2023年5月16日火曜日
今日の想い 1243
数行に及んだ銀行破綻、銀行危機もそれなりの落ち着きを取り戻しつつあるように見え、銀行による信用システムは強固で、崩壊するなどと思っている者は数えるだけなのかも知れない。かつての信用破綻、金融破綻は、経済社会、金融社会が平安を装い始めるその時を待っていたかのように起こっている。今は正にそんな空気が漂っている。確かにアメリカの失業率は低い。IT企業を中心に大リストラが起こっているにもかかわらず、それでも失業率は低い。大企業からリストラされてもIT関連の中小企業から彼等の経験ゆえに雇用されるからであり、しかし中小企業も余計に従業員を抱えることはできないので、入れた人数以上の既存従業員をリストラすることは目に見えている。要するに上から下に玉突きリストラしながら次第にその人数は増えてきて表面化するのだが、失業率は表面化されて初めて数字に表れる。銀行がたくさん抱えているのがMBSと言われる住宅ローン担保証券だが、住宅以外の商業用不動産ローン担保証券も同じようにたくさん抱えていて、コロナによる自宅勤務で商業用不動産の需要が落ち込んでしまいサブプライムによるMBSの問題と同じようにこの商業用MBSの落ち込みと含み損も際立ってきた。リーマンショックはMBS問題一つだったが、今回のバブル崩壊の過程には問題が一つ二つではなく様々な深刻な問題が同時的に起こりつつあって、そうなるとリーマンショックの比ではないはずだ。最近日本であちこち地震が発生していて、日本列島全体を文字通り震撼させる大地震を予感させるが、経済も金融もあちこち問題が発生していて、それが大恐慌を予感させる。金融のレバレッジはテコの原理で、現物を何倍にも増幅させて投資運用されている。要するに現物担保のない増幅された部分と釣り合うように、金融緩和によるM2(マネーサプライ)が増加された訳で、マネーそのものにも現物担保はない、すなわち価値はないということになる。しかし増幅された部分なのか現物なのかの色分けは出来ず混ざり合っているので量を表す数値よりも比率が重要なのであり、金利や金利差が全てを決めてしまっている。どうしてこれほどに%に一喜一憂し、%次第で銀行が破綻してしまうかはそういう理由があるからだ。金利0.05%といった少ない数字を5ベーシスポイントというような大層な言い方にしているのもそこに理由がある。金融は%、比率が支配している。%を治める存在は神にも悪魔にもなる霊的混沌存在だが、ヒンズーの教えにある破壊に携わるシバ神が関与しているのはわかる。
今日の想い 1242
生(意識)を通して魂の成長とし、また死(無意識)を通して魂成長の意味を知る。主管する位置で知情意の魂を一つとし、犠牲を甘受して魂の背後の霊と語り合う。善を標榜して魂を鍛え、悪なる現実に腰を折られて魂の謙虚さを霊に刻む。言葉を言い換えれば、魂の前進が地上の成長を促し、魂の後退を経験して霊的な深みを学ぶ。勿論、霊的深みを掘り起こすことで魂の新たな前進をもたらすのであって、もしひたすら前進し続けるとすれば人間の霊的力は枯渇する。だから人生に波があって当然であり、上がれば下がるのは必然であり、人類社会の歴史も経済の流れにも同じように波がある。より上がればより下がるのが原理原則だ。人間が地上を生きるのは魂で生きるのであり、肉体で生きていればいいという話ではない。魂がどれだけ高くそして深く、どれだけ強固にそして柔軟に、どれだけ包括しそして個別に入り込めるか、ということなのだが、私達が地球村を標榜するに於いてそれは包括的らしくはあるけれども、本当に包括的であろうとするなら一方で個別的なことにしっかり光を充てて向き合ってこその包括なのだが、その辺りは偏りすぎていて全体主義に陥りやすいと私は思う。今の若者がそうであるように、様々な方面で個の力を発揮できる二世達のはずが、一世の祝福子女へのあるべきイメージが余りにも偏り過ぎていて、その被害を受けている場合が相当にあると思っている。一連の問題で或る祝福二世が反教会の立場で脚光を浴びたが、教会や食口は彼女に対して批難一辺倒であるのもおかしいし、彼女をそう駆り立てた原因を謙虚に真摯に尋ねないのもおかしい。悪霊が働いてサタン化した、などという決め付けを中心者から言われるがまま鵜呑みにできるものだろうか。もしそうであるなら解散要求を待たないまでも既に教会組織は終わっている。 個の力を発揮できることを容認すれば反全体的になるのは当然だけれども、それまでの全体的なものが合わなくなったということであり、新たな包括案を提示する必要を是とすべきだ。神の摂理の前進が積み上げ一辺倒ではなく破壊的である場合もあるし、歴史の転換点は破壊的な場合が殆どだ。私は普通の食口とは異なり、破壊的でありサタンと呼ばれるほどの二世が現れるのは神の叡智をそこに見る想いだ。
2023年5月9日火曜日
今日の想い 1241
地上天国に住まう人々は皆が皆四六時中他の為に生き、犠牲的精神に貫かれた人々だろうか。堕落人間が罪を清算し、真の人間になったなら善人ばかりで悪人はいないのだろうか。善人は徹底して他を思い自分を犠牲にする公的人間となるのだろうか。様々な疑問に向き合うことが認識の第一歩だ。天国生活でよく例えられるのが、宴会のテーブルで自分の口に持っていくには長すぎる箸で、お互い与えあいながら自分の腹も他によって満たされるが、自分の腹のことしか考えない者は満たされない、という話だが、だいたい長箸しか用意されていない時点で随分と意地悪な、とても便利な天国とは思えない設定になっている。箸は相手の口にもっていけるかも知れないけれども、食べ物を自分の口にもっていくのは当然だしそれが箸というものだろう。そして犠牲的な思考や行動を素晴らしいと思えるのは、自己中心的な思考や行動が普通で当然だからこそではないだろうか。人間は本来他の助けを借りずとも自助で生きるようになっている。自己中心を悪のように仕立て上げているが、自己を成り立たせた上での他の為に生きるだと思う。私達の「為に生きる」という観念が極めて稚拙に思える。そんな長箸で例えられるような天国イメージで留めているから何十年たっても伝道はできない。飴を与えることは為に生きることではなく甘やかしているに過ぎない、という場合の方が多い。天国行きの切符は飴の最たるものかも知れないが、天国を築ける力があれば誰かが造った天国に住まう必要はない。よって天国の何処に住むかではなく、天国建造のどの部分を担うのかそしてどの部分を他に依存するのか、という意味で他の為に生きるのであり同時に他に依存している。個人が活きれば全体も活き、全体が活きれば個人も活きるべきであって、一方に偏る個人主義と全体主義がそれぞれを否定しているのとは関係性が異なっている。よって天国の概念は限定的な時間空間モノの世界では成り立たず、どのようにも新たな世界、新たな事物を創造できるし、その固定的ではない創造理想を踏まえて成り立つ概念が天国とはいえないだろうか。犠牲精神は抱えているものを放つことで次元の違うそれ以上の価値ある内容を得るという意味であって、けっして只捨て去るという意味ではないはずだ。親が子の為に犠牲になるのは先ず親子一心同体であって、子の活きる価値を見出すから犠牲をものともしないし、それを犠牲とも思わない。一心同体の最愛の存在を失うとき、失ったことで得られた新たな心情を認識することで、私は別の次元で最愛の存在を迎える。
2023年5月7日日曜日
今日の想い 1240
ワシントンからルート95を北上してニューヨークを目指すと、NJターンパイクに入る手前に巨大な鉄骨のデラウェアメモリアルブリッジがある。車を走らせて湖のようなデラウェア川を中ほどまで横断するにつれ、横風は一層強くなる。風に車体が持っていかれないよう、ハンドルに力を込めながらも坂を上りきると、視界は一変に開放され眼前に地平線が広がる。アメリカの広大さを実感する瞬間だ。卸に勤めていた頃は、毎週のようにブルックリンまで魚の買い出しに出向いていた。レストランに移ってからも本部参りで年に数回ニューヨーク間を往復していた。このブリッジがちょうど中間位置にあって、だいたいそこまで二時間半かかるが、ブリッジを超えて残り半分の運転に気合を入れなおす。景色は実際感動的でもあるが、強風に対処し化学工場からの臭いもあって、実は通過し景色を思い起こしてすばらしかったと思う二次的感動だ。ブリッジを降りてターンパイクに入る手前で40号線の入り口があり、東への経路を辿っていくとアトランティックシティーに着く。ベトナム人の従業員と二人で、運転を変わりながら買い出しに行っていたが、アトランティックシティーに寄ってから行こうと何度もねだられた。人は良いがギャンブル好きで、寄ったら数時間は取られることはわかりきっているので、その40号線入り口あたりの運転は私がした。トラックで横風の強いブリッジを超えるのは緊張するし疲れもしたが、そんな理由でハンドルを握らざるを得なかった。鉄骨で何の風情もない無骨な橋だったが、何度も通過するうちにいろんな思い出と相まって親近感を覚える。ある時復路で夕暮れ時に差し掛かると、空一面の紅で覆われ、まさか霊界かと疑うほど息を飲んだ記憶もある。ちなみにその従業員は女好きで、着いたら着いたで夜のキャナルストリート(中華街)あたりで夕食を取ろうと私を誘い出し、怪しい店に連れ込まれそうにもなった。
今日の想い 1239
鬼畜米英を敵とする戦時中の天皇を拝する国体も、サタンと悪霊を提示されて闘争中の御父母様を拝する信仰も、どちらもその御尊名を口にして崇めていれば御恩に与るという同じ信仰態度が伺える。御父母様が願われていると言われたら、もはや疑いは抱かない。み言葉にこう書いてあると言われたら、それは絶対であって異論を挟む余地もない。そのように先天時代の私達は御父母様を奉る全体主義だった。御父母様が地上の神、あるいは神の代身であるうちはそれでよかった。しかし地上天国は全体主義の世界だと言えるだろうか。あるいは条件として摂理が要求したからそういう体制を取ったのだろうか。であれば限定的だろうし今は今の摂理的要求に準ずるものでなければならないはずだ。教会を断罪する或る二世は、あることないこと言い立てて、非道だからこそ解散すべきだと声を張るが、摂理的要求として今までの教会体制はそぐわないから新たな体制を取る必要があると私は思う。おそらく教会が自分で自分を変えられなかったから、天は外的圧力を甘受すべく断罪されたのだろう。甘受という言葉を使ったが、この苦い仕打ちを否定せず言い訳もせずしっかり受け止めて、その苦味(にがみ)で体も体制も純化して、新たな摂理要求に応えうる私達となるべく蛹を脱がなければならない。私達の声を聞いてくれと言うのはどうにも摂理と歯車が嚙み合っていない。おまえは信仰を失いサタン圏に頭を下げるのかと、指さす食口に対してはこう反論したい。とことん御父母様中心の全体主義で行くなら、御母様に生命を張ってでも、危険性をしっかりと進言するか法を搔い潜り世間を納得させ得る方策と緻密な戦略を持つか、どちらかでもすべきだったが、それほどの覚悟と責任感情が私達にあったのかと、、。結局はこうなることを誰もが心の片隅で思っていたはずだ。外的には左翼勢力に負けたのであり、内的にはお粗末で傲慢で無責任な幼い精神を神霊によって打ち砕かれた。
2023年5月6日土曜日
今日の想い 1238
時代は大混沌時代、上の者が下に、下の者が上になる下剋上時代、それこそが後天開闢時代の幕開けだ。先天時代の道理はある意味通じない。そうしてその認識を誰よりも持つべきは食口達だ。神の摂理にもっとも従っていた立場が逆に摂理に反する立場にいる。もっとも神に愛された立場が神に恨まれる立場になる。先天時代から比べればどれほど世界は荒れているか、社会も天地も人心も荒れ放題でなんでもありの世の中だ。ある意味、先天時代は平和だった。しかし神は暫定的な平和を望んではいない。万人が戦う時代に敢えて飛び込ませてまで真の愛、すなわち心情の介する位相の高い平和地球、平和大地を望まれた。今はその万人が戦う時代だ。かつてそして今も愛と呼ばれている生易しい愛ではなく、歓喜し激怒し痛心し感動する、そんなワンステージもツーステージも高い喜怒哀楽を生きる心情時代、それは魂が次元を上げる魂の開闢時代だ。だから後天開闢時代だ。上の者が下になるように先の者が後になり、下の者が上になるように後の者が先になる。そういう過渡期の混沌の最中でありそんな今、教会にしがみ付き教会の指示待ちで大荒波の大海を泳ぎ切るのは至難の業であって、良心こそが羅針盤であり良心の願いに生きればそれでこそ新しい新天地に辿り着くことができる。教会が揺さぶられたら教会から逃れるべきで、しがみ付いていれば安心だと良心が叫ぶとは思わない。もっと大きな天の願いがそれぞれにあるはずで、良心に従って立てるその自立のマストを立ててこそ新しい希望に向けて航海できる。
2023年5月5日金曜日
今日の想い 1237
食口とこの世の人達の違いは何だろうか。神側とサタン側? 祝福を受けた罪のない人達と地獄圏から抜け出していない罪のある人達? 為に生きる公的存在と自己中心の私的存在? あるいは単に原理とみ言葉とアボジを知っている立場と知らない立場? どうすみ分けしようが食口それぞれだが、信仰者であれば先ず他に対して謙虚であるべきだ。それは表面的にもそうだが、それ以上に内的に他に対して先ず謙虚であるべきだ。思うに食口は表面的には優しさ人の好さを装っているが、内面では神に選ばれた選民だという認識はあるだろう。本人が意識するしないに関わらず、この世と接する中でその選民認識は選ばれていない人達と分けて線引きしている。その分け隔てが「私達の声を聞いてください」という立場知らずの要求(押し付け?)になってしまう。私達とこの世の人達と何ら位相が変わることはない。この世が堕落世界だというのなら同じ堕落世界に住む同じステージにいる。だから理解を要求できる立場ではないし、言葉で理解を得られると思う驕りがだいたいおかしい。彼等とは霊的に違う?霊的理解もおぼつかないのに一体自分の何がその認識をもたらすのだろうか。選民意識による独善的な言動行動が良心を無視した霊的無知からきており、先ず私達が悔い改めるべき一歩だ。悔い改めは、献金額が足りないことでも救いのない言葉で伝道もどきの達成数に届かないことでもないし、更に教理やアダムエバを犯したことでも礼拝に参加しなかったことでもない。自分の霊的成長をもたらす良心を無視し、良心に従わないことを悔い改めないと食口は前進できない。