2007年7月8日日曜日
思考形態
この世の中にどっぷり浸かっているかどうかは、自分の思考形態を観察してみると良くわかる。世俗的環境に於いては、自分と比べるということに殆どの意識は使われる。比べるという意識は自己中心であればこそ出てくる意識だと思う。たいていの人は批判的思考が自分の思考形態の中心をなす。損得に敏感だとか悲観的だとか、優越感を覚えるとか減少感を覚えるとか、全ては比べると言う意識から発せられる。この世に於いては尊敬、畏敬、賛美、感謝の感情はなかなか育ちにくい。自分自身を新しい次元に昇華させようとするなら、こういった感情を自分で自分の中に生み出す努力を重ねなければならないだろう。一輪の花を見ながら、誰に見られるでもないその花が与えることだけに精一杯生ききろうとする姿を見て、はらはら涙が流れるほどの賛美や崇敬の対象となるものを環境や体験の中に捜し求める。環境や体験をただ受動的に捉えるだけではその発見は見出せない。想いを自分から能動的に働かせて接すると、世界は違う様相を帯びてくる。それは五感を超えた霊的感性の萌芽が目覚める時だ。五感を通して得る肉的要求の満足だけで生をおくる人は、人間本来の生とは程遠い。どちらかというと動物に近い。しかし先程述べた宗教的感情を育てるほどに神様に近くなっていく。生きる真の喜びを知るようになる。人間としての自己変革は、内なる思考生活のその深みの中で遂行される。自分を変えるとは思考を変える事である。
2007年7月3日火曜日
新次元の扉
摂理かビジネスかという話をしたが、摂理であるならそれはなにかということだ。摂理を進めるために金が必要だ、だからその金を生み出す為の金の鶏が必要である、兄弟ひとりひとりが金の鶏になりそしてより大きな金の鶏となる為に組織作りをする、しかし金を生み出すことが本当に摂理なのだろうか?摂理を進めるために金が必要であるのにその金を生み出す事自体が目標になっているような気がする。御父様の願いに応える為、摂理を進めるために、だから金が必要なのだというその想いがあるなら、御父様の願いの中に生き摂理に貢献していると言えるだろう。しかし金を作ること自体が目標となってしまって、たとえ結果的にはその金を捧げるとしてもそれは本当の意味で天の願いに生き摂理に生きたと言えるのだろうか。私はこの辺の本質的動機付けが全てを決め得るという気がしている。出しても出しても際限の無い献金活動、この根底にあるのは我々の意識が金を作ることに成り下がっているから、要するに潜在意識の中にとにかく金を作って出すと言う事を自分のなかに観念として刷り込んでいるから結果としてそうなっているとはいえないだろうか。金を出すことで完結できない摂理が本来我々の意識であるべきで、それがいつのまにか金だけ上に流していればという意識にすりかわってしまったためにその当然の結果として金を吐き出すことだけにアップアップしている。与えること、為に生きることが摂理の本質で、レストラン業を媒介として摂理するとはレストランを通して為に生きる、真の愛の及ぶ範囲を広めていく、天の愛の影響圏を広めていくと言うことになると思う。自分自身の転換点、と同時に私が預かっている店の転換点は明らかにその意識に目覚めたときだと思う。簡単にいうと金の意識から愛の意識に次元が上がった時全ての歯車が噛み合い始めるのだと思う。しかし完全にそのステージに上がり切った訳ではないのでまだそれなりにSTRUGGLEすることもあるが、しかし明らかに自分も店も従業員も金回りも前とは違ってきている。しかし天の本当の霊感商法はこんなものではないだろう。TPの勝利的内容は爆発的な運勢圏を天宙にもたらしているはずだ。そこに我々が直結するなら想像だにしない結実を目の当たりにする時が直ぐそこに来ているのかも知れない。その糸口が、霊界に通ずる糸口が、新しい次元に移行する糸口が目の前にある。同じ事情圏環境圏でありながら、全ての対象物が今までとは全く違ったものに見える発見が加わってくる。
2007年7月2日月曜日
歩みの本質
我々の歩みの本質は霊界にある。そう断言できる。このレストラン業を摂理として取り組んでいるのか、ビジネスとして取り組んでいるのかと問うなら明らかに摂理として取り組んでいる。摂理としてビジネスに取り組んでいるなどと、さも解かったような物言いをする兄弟もたくさんいる。がこれは言い訳の為の方便であって我々の歩みの本質ではないだろう。ビジネスとしての当然の行動も、摂理だからと言って抑えられる局面もあれば、逆にビジネスなんだからそれなりの結果を出せと責められる場合もある。要するに上の立場にある者も、これは摂理でありビジネスであるという、時として矛盾する内容を自分も分からずに思い込みで上意下達する。口の上での事ならそれで済むが、それを形にしようとすれば混乱を生じる。現場の者もそのまま受け取るなら店も崩壊するし自分も崩壊する。だから現場の者は混乱を最小に止める為のフィルターをその意識の中に用意している。自分と店を擁護する為の安全圏をその意識の中に用意している。それがいいとか悪いとかではなくそうならざるを得なかった。私は御父様が願われるレストラン業というのは摂理としてであり、要するにビジネスの形を装った摂理であって、摂理である以上全てにおいて金、金、金、金まみれの様相とは次元を異にすべきだと思う。勿論金自体も前から言うように万物の象徴、愛のひとつの形、愛のひとつの流れとしての要素も多大にあるというのはその通りだが、愛に絶対的価値を置いて、為に生きるという与える想いや意識があって、その上での愛のひとつの形としての金の授受であるべきだと思う。特に今回の要求もビジネス的に考えれば自殺行為に等しい。しかしこの出資(?)を損金として捉えあきらめるのではなく、教会を支えアメリカを支える為の愛の形として感謝して送る意識を何とかして創らない限り、後に繋げる希望は全く見えてこない。正直に言うと心の中は背水の陣だ。ここで踏ん張ろうと思ったら祈るしかない。祈って祈って神の言葉を聞くしかない。我々の歩みの本質は霊界にある。神の願いを知る為に霊界と100%繋がり、地上に基盤を築くための霊的アンテナとなって着々と摂理を進めていく。愛の粒子が我々を通して地上に流れ、愛の色にそこここが染まっていくのを霊視しながら摂理を進めていく。その域に達する為には祈るしかないと思う。霊的になるしかないと思う。そうして本来あるべきビジネスを超える本当の霊感商法がアメリカで花を咲かせる。
2007年6月30日土曜日
久々の新規店舗
閑古鳥が鳴いていた三十席あまりのレストランを買ったと言う。どんな店かと興味津々で担当の兄弟の道案内で俄か査定を試みる。オープンして五年が経つと言うが机も椅子も新品同様だ。しかし、調度品が新しそうだからという理由でこのレストランを買ったわけではないだろう。正直どうしてこんな店を買ったのか私には理解できなかった。寂れたショッピングセンターの中程に位置した千二~三百スクエアーの店。土地勘がないのでそのショッピングセンターの地の利がどれ程のものか良くわからないため断言することはできない。感じる範囲で、こうしてみたらああしてみたらと言って置くしかない。担当者はそれなりにやる気があるのに、それを削いでしまっては元も子もない。そしてオープン当日。日本人世帯に対するあらゆる宣伝を打って始めたものの出足はいまいちのようだ。売り上げを尋ねるとランチで300ドルだと言う。私は上出来だと思う。恐らく前の経営の時はランチで百ドルいっていなかったと思う。月目標五万ドルと言うことだが目標は目標、最初から達成することなど望むべくも無い。レストランを二十数年手懸けてきたものが手を出す代物ではないとは思ったが、買った以上そこまでに至る経緯はあったはずだ。状況のわからないものがとやかく言う意味は無い。勝負はこれから賭けるものと覚悟すべきだろう。担当者がどれだけこの店に想い入れをかけるかだ。儲けようなどと言うスケベ根性は捨てて、どれだけこの店を愛するかだ。子供を育てるのと一緒であきらめない限りつぶれることは無い。しかし何とも寂しい想いがする。レストランの、とりわけ日本食レストランのプロの集団が取り掛かる物件なのかという思いが、どうしても払拭されない。それぞれの現場で歩んでいるマネージャー達の声を耳掻き一掬いでもと言う気持ちは起こらなかったのだろうか。どんな赤字の店の店長であっても、この物件を良しとする店長はうちのグループにはいないと思う。本部に取っては減るばかりであったレストランを一軒増やしたという事実が必要だったのかもしれない。
2007年6月2日土曜日
霊的生活
人間は肉身と霊人体をもっている。肉身は地上世界との情報と要素をやり取りしながら存在し、霊人体は霊界との情報と要素をやり取りしながら存在する。地上世界霊界と区別する感覚は地上生活的感覚の区別であり本来線を引いたように区別できるような内容のものではない。地上世界の特徴は感覚を通して受ける情報(ある意味要素)で生活する、すなわち受けることを通して生活する場であり溢れんばかりに受ける生活の中に与えることを学んでいく場が地上であり与えることの何たるかを学んで霊界で生活する。地上生活は受動的であるのに比べ霊界での生活は能動的である。地上で受けることしか知らないと、働きかけること与えることで世界が広がり認識される世界の霊界では非常に不自由なものとなる。与えることにいつも前向きな人すなわち愛の深い人こそ霊界での生活はより自由となる。この辺の感覚が理解できると霊的な意味がより論理的科学的なものとなる。咲き誇る花々や生い茂る木々には霊人体はない。霊人体はないが神の霊が直接的に働きかける。草木を霊的に観るなら魂に染み入る輝きを心地よく受け取る様を実感する。絵を見て感動する。それは絵そのものに感動しているのではなく筆遣い色使いを通し背後にある作者の想いを受けて感動する。すなわち霊的に見ていることを意味する。音楽を聴いて涙を流す。音の流れだけを受け取るのではなく流れに乗せられて作者の魂が届く。霊的に聴いているので涙が流れる。誰もが霊的に視たり聴いたりしている。しかし程度の差があるため自分を霊的な存在だと認識しない。内的なものに外的なもの以上の価値を見出すとき霊的成長が始まる。
2007年5月27日日曜日
食口は神様の子羊
まれに頭脳明晰な兄弟もいるにはいるが、ティピカル食口は実力でこの世から劣る場合が多い。勿論自分もその一人だ。天は招待していた人が無視して現れないので、本来予定になかった者が急ぎ声をかけられた立場が我々ではある。しかし神様に対して申し訳ない思いは持つとしても、兄弟をないがしろにすべきではない。その兄弟一人を復帰するためにどれだけ神様が精誠を捧げてこられたか。自分から門を叩き自分の意思でこの道を歩むことを選択したように思えるが、実は神様が私をたずね神様が声をかけて下さったのが食口一人一人である。どれ程心を閉ざしたとしても、どれ程教会から距離を置くとしても、離れれば離れるほどにその兄弟に対する神様のいとおしい想いは益々募る。迷った子羊を主人が探す話と同じだ。神様のその想いが心に届けばこそ責任から逃れたことで平安になるどころか胸が痛む。良心の呵責は益々募る。どれ程信仰に於いて幼く、情けないほどにやる気が失せているとしても、神様が心を砕いて呼び寄せた一人一人の兄弟達だ。神様の想いがその兄弟の中にあるから尊い。共に歩む中でそのような認識を持って接してきただろうか。使い捨て同然の意識が私達の中に米粒一つでも無かっただろうか。神様父母様と同じ目線で兄弟達に接しているだろうか。今立たされている立場が兄弟の上に立つ位置であるなら、他の兄弟より優れているから立たされたのではなく、他の兄弟の良き点を引き出し立たせる為に置かれた自分だと内的に捉えるべきだと思う。今までさも同然のように無意識に対していた全ての事柄を、一つ一つその真の意味、本質を探り出す作業が必要だ。食口を見て神を見ることが出来るような、本質的な自分を備えなければ私はこの位置にふさわしくない。
2007年5月24日木曜日
オーナーリターン
今の経営は(現代ファイナンス論)に思想理念の基礎を置いている。ようするに企業価値、株主価値というように会社も一つの商品として取り扱われる。そのために証券市場という企業を売る店舗に於いて企業買収が起こる。経営の良し悪しは企業価値を高めたかどうか、即ち株価時価総額を高めたかどうかで判断される。長期的判断によるのであれば百歩譲って良しとしても、デイトレイダーに見られるように短期も短期、時間毎に企業価値が判断されギャンブルの為のゲーム機ぐらいの感覚しかない烏合の株主は糞にもならないだろう。レイダーと呼ばれる乗っ取り屋、少し前日本を賑わした村上ファンド等がその類なのだが、それらは投資家から資金を集め、ある会社に狙いをつけて買収する。買収されれば経営者陣は更迭され、息のかかった経営陣に取って代わる。長期的視野などはなからなく、首は切り放題コストは下げ放題でとにかく短期に於いては経営状態が目を見張るほど良くなり株価は最大化される。そして株価が天井を突いた時点で売り抜ける。あとは野となれ山となれでその企業は一気に破綻に向かう。株主に目を向けることと消費者に目を向けることとは意味合いがまるで違い、会社を同じベクトルの方向に向けることはない。本部でオーナーリターンという言葉を何度も聞いた。確かにたかれるだけたかるその辺の株主と一緒にすることは失礼極まりないが、オーナーリターン以上に企業は社会の為にあるべきだと自分は思う。どれだけ客の為に社会の為に精誠を尽くしているかという、オーナーの言う「為に生きる精神」を徹底すべきで、その本質が浸透すれば自ずと売り上げも増し利益も増し会社も発展すると思う。コストを下げろと口をすっぱくするより、客は何を望みどう客の為になればコストが下がるのかという価値創造的な方向に意識を向けるべきだと私は思う。利益はそれだけを追求すべきものではない。いかに社会に貢献したかの結果として、あるいは社会からの会社の期待値として、必要に応じて付いてくるものだと私は信じている。
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