2026年1月12日月曜日

今日の想い 1439

 体がだるい。どうやら風邪をひいたらしい。インフルなのだろうか。ワクチンは打ったもののこの程度なのはワクチンが効いているということだろうか。微熱があったが今計るとほぼ平熱だ。しかしだるい。重くてだるい。うつしてはまずいので母を訪ねることはしばらく避けたい。霊前に飾られていた花を持って帰って飾っていたが、それらも頸を折ってしなだれてしまった。だるい体を持ち上げ終わった花を始末した。それにしても妻が入院していて幸いだった。幸いだというのもおかしいが、同じ部屋に居れば必ずうつってしまう。今は私はここでひとり、妻は病室でひとり、そして母もはずれの別棟でひとりだ。暫くひとりだった父は重い体から抜け出て、迷うことなく居るべきところに向かって旅立っただろうか。それとも自らの生涯を振り返りながら生きたことの意味を霊に刻み込む期間だろうか。父は法事にはナマンダブナマンダブと口にはしていたものの、死んだら終わりで極楽浄土などないと言い放っていた。要するに信仰は生きている者の慰めであり供養であって、死者は死者で勝手に消えてなくなるものと信じていた。ナマンダブは方便で、殆どの日本人がそうであるように霊を信じない唯物主義だ。父は体を離れても生きている自分を先ず受け入れるところから始めなければならないだろう。浄土真宗は四十九日の苦行の旅は必要なく、阿弥陀如来に即極楽に連れていかれるらしいが、父はそれも信じてはいなかったはずだ。どうもこの体の重さとだるさは父の旅立ちと関係があるように思えてならない。

2026年1月10日土曜日

今日の想い 1438

アボジについても、そして御母様についても様々な論理的解釈は成り立つだろう。しかし人間は感情として納得できる結果ありきの場合が多く、それに合わせて論理を組み立てているので、こうこうこういう理由で御母様の独生女が成り立つと言われても、受け入れない者に対しては意味を為さない。既に何度も触れているように、自分は堕落人間として生まれたという自覚があるにもかかわらず、堕落した位置(霊的無知)でこの御方は罪のない御方なのかどうかの判断がどうしてできるのか不思議だ。堕落世界の出である第一の御母様候補、第二の御母様候補とアボジは関係を持たれたからアボジは罪の根を受けてしまった等という説明は、堕落と罪に対して極めて現実的であり戒めによる血筋の話でしかない。御父様の使命としての路程でありながら、結果として失敗したにも関わらずそれを堕落だと言ってのける神経がわからない。戒めという教条で堕落だ復帰だと決められるならこんな簡単で単純な話はないだろう。現実的話をするなら罪ある親から罪のないイエス様が生まれアボジが生まれたように、御母様ですら地球外生命からやってこられたのではない。正直な話御母様がアボジの罪のあるなしを、同じ親から生まれた他の兄弟に罪があるならアボジに然りだという説明も、肉体生命による血筋の話で霊的血統の話ではない。私は心情こそが本質的な意味での霊的ということであり、エバと天使長との関係性で神様の心情を蹂躙して断ったから堕ちたのであり、アダムも単純にエバと交わったという話ではなく、心情蹂躙に加わってしまい心情を断ったから同じように堕ちてしまった。そして神の主管の及ばない、すなわち心情の及ばない生命圏外へと逃げてしまった。

今日の想い 1437

通夜と葬儀の挨拶は、自分の人生の大半はアメリカ生活だったので日本語は未熟だと前置きして話を始めた。通夜で話したことは、お寺さんの高説は私にはほぼほぼわからないが、しかし法話が始まると同時に父が喜んでいるのを感じたということ。挨拶に立つまでは何を話そうかと思っていたがこの実際に感じたことを簡単に述べた。葬儀で話したことは、控室にあった喪主挨拶の定例文を読み上げて終わろうかと思ったが、しかし内々の葬儀なので父の生い立ちの一部でも触れて故人を偲んで欲しいと話を始めた。父の幼少の頃の事故による大やけど、身障者扱いによる職業訓練所での理容技術の習得、田舎に帰ってからの結婚と開業、そしてその雪深い田舎で二男一女を育てながら人生の大半をそこで送ったこと。私はあの田舎が兎に角嫌いで高校は田舎を出て広島市内に行ったし、最後には地球の裏側まで逃げてしまったが、あの住み辛い田舎で父と母が生活し続けたというのは、それだけで尊敬に値すると思っていること。親に一番心配をかけ苦労をかけた私が言うのかということだが、幼少期の事故から出発した父の人生は難儀な事の多かったのは想像に難くない。しかしなるようにしかならんと、Let it beの哲学で苦難を乗り越え生き切った人生であったこと。そして父の分までも残された母を気遣っていくので見守っていて欲しいと話を閉めた。慣れていないので当然つまりつまりの話しぶりだったが、滔々と話すより返って会葬者に届いたのではないかと思っている。私が立派だと思われるより、父なりの立派な歩みが届けばそれ以上の息子としての願いはない。

今日の想い 1436

父は生前、「なんもええことはない はように死んだほうがええ」と口にするようになった。母から小言を言われた時もそう言うし、体に力が入らず立ち上がれないときもそう言うし、トイレに間に合わず粗相をした時もそう毒づいていた。そう楽に死ねるもんでもないでと返すと苦笑いで応酬していた。子供のような父で特に家の中では好き放題の言いようで、父がいない今でもどう返していいものか考えている。父の臨終に立ち会ったし、葬儀も行い骨も拾った。父の死は明らかなのに、しかしそれでも未だにこの世から父がいなくなった実感はない。老後に構えた家の玄関を開けて、居間のドアに付いているガラス小窓から前と同じように父が見えると思っているし、オンラインの囲碁のやり方を教えて結構のめり込んでいたが、いらぬところを押してパソコンがフリーズすると必ず連絡してきていたのだが、未だにその電話を待っている私がいる。父の死を受け入れるも何も、私のどこかで死んではいないと思っていて感情がどうなのかという段階には至っていないらしい。確かに通夜や葬儀の手配、喪主代理としての挨拶、香典返しや更には法要の手配もあったり、役所での手続きやらもあり体が忙しく心は置き去りのままなのはそうだろう。そうなると四十九日の法要が終わって、やっと自分の内面に父の死が刻まれるのだろうか。母は今のところ元気ではあるが、なんせ92なのでそう遠くはないはずだし、妻は透析患者で最近滅法弱くなってきているし、次から次へと忙しい日々が待っていると思うと、ひと段落する頃には私自身が参ってしまってあっさり死の門を潜るのかもしれない。若い頃に悩み抜いたり、思慮もなく行動したり、み旨だ摂理だと走り回った時代がなかったかのようすっぽり抜けて、どう介護するかどう送るかの老後が自分の人生の大半のように思えてしまう。

2026年1月6日火曜日

今日の想い 1435

 「夕日がとてもきれいだね 野垂れ死ぬかも知れないね」...NHK朝ドラばけばけの主題歌、笑ったり転んだりの歌詞の一部だ。この歌を聞くたびにアボジの例のあのお話を思い出す。既に記したことはあるが、「平和の主人、血統の主人」の中の例の話だ。障害のあるユクムソク夫婦の話だ。十一月に雪が降り始める前にアボジの故郷に訪ねてきて、昼食を準備して松の木陰の、夕焼けのとても暖かい所で二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについて、そのまま逝った...という話だ。このお話は決して不幸な夫婦の、かわいそうな死に際の話ではない。前置きに目を通すと、障害者の男性を夫に迎えたとしても一緒に暮らせないとなれば、天国には行けず相対がいないまま死ねば消えてなくなり、障害があったとしても、結婚して一緒に楽しく暮らせば生活において天の国がすべて待遇してくれる、、という、絶対愛絶対性に繋がる夫婦愛の話だ。はたから見ればこの夫婦は野垂れ死んだわけだけれども、彼等は夕焼けの暖かい最高のシチュエーションで寄り添い喜びの中で人生を閉じた、うらやましいほどの天の保護下にあった。私はこのみ言葉のこの一節に目を通すたびに、霊的な内容に価値を見出すことに疎く、この世的肉的なやがては消え去る価値観に毒されている、それこそが堕落性として私の中に居座るサタンだと再認識させられ改めさせられる。父の葬儀がやっと終わったと、いくらか安堵に浸ろうと思った途端、今度は相対が肺炎を患い入院するはめになった。ここ数年は透析で安定していたが、年なのか寒さのせいなのか感染に応戦できず弱くはなっていたということだろう。波乱の幕締めからの波乱の幕開けだ。私の人生には、大変なとき常にその時々の励ましの歌が寄り添い、そのメロディーや歌詞が背後で流れている。息子が大病を患った時もそうだった。相対が長時間の手術に臨んだ時もそうだった。そして昨年の暮れからは「笑ったり転んだり」のメロディーが流れて寄り添ってくれている。私は天の保護下にあって、消え去る孤独な存在ではない。

2026年1月5日月曜日

今日の想い 1434

人一倍忙しい年の瀬だったせいか、新年は知らぬうちに明けていた。謂わば2026年は2025年の延長だという感覚だ。祖父の臨終に間に合わせたいということで、娘が急ぎ向かったが、アメリカから間に合うはずもなく葬儀の時も機上の人でしかなかった。息子はどちらにしろ離れるわけにはいかず、早々に献花をしてくれてそれはそれで祭壇が華やかになって有難かった。通夜の集いでふたつ発見したことがあった。ひとつは念仏の唱和を終えてお寺さんが法話を話してくださるのだが、それを聞きながら私自身は聞きなれない仏教語や言い回しに理解が難しかったのだが、お寺さんが嚙み砕くような口調でゆっくりと法話を話し始めると、途端に重たい空気が軽くなり「ああ父が喜んでいる」と隣に聞こえるほど咄嗟に口にしていた。仏式葬儀は慣習的な意味合い以上のものはないと思っていた私には新鮮な発見で、周囲の景色も明るくなり献花の花々も生きているようだった。そして今ひとつは念仏が始まると母が急に涙を流し始め、ハンカチで目頭を何度も拭いながら母のすすり泣きは通夜の集いの間中止まることなかった。臨終の報せをしても何も驚かなかったし通夜のその時までケロッとしていて動揺は何一つないように思えたのだが、母にすれば我儘でしかない父にも関わらず、お互い90を超えるまで添い遂げたからには、子供にすらわからない添い遂げた夫婦としての言葉にできない深い想いがあったことをその時知った。母にすれば大晦日に送ってからの夫のいない正月だ。昨年と新年は生活も状況も心の在り様までも全く異なっている。その変化に母は対処できるだろうか。逝った者は先祖に任せる以外ないが、残された者は生きていかなければならず、これまで以上に母を支えていかなければならない。

今日の想い 1433

 押し迫った31日に父の葬儀を執り行った。29日夕に息を引き取り、葬儀屋に早速に連絡を入れ30日に通夜をしての31日、年内に済ませた方がいいという頭があったものだから抜かりのないよう段取りすることに意識を集中させた。だから通夜でも葬儀の時も、涙を流し亡骸に話しかけるような余裕はなかった。今は滞りなく終わらせたことの安堵に浸っているが、世間の正月気分でも引いてしまえば改めて父を送ったことへの内面の総括を迫られるだろう。父は幼少の頃、囲炉裏に転がり落ちて左足を大火傷している。子供には左の素足を見せることはなかったが、変形しているのはわかるし不自然な歩き方をしていた。そんな幼少期から出発した父の人生は、難儀なこと多かりし人生だったのは確かだ。勿論私は高校を卒業すると同時に教会に献身し家を飛び出したものだから、長男である私自身が父のもっとも頭の痛かった部分であることはよくわかっている。常に飄々として自然体で生きてきた父だから多くの困難を遣り過ごしてこれた。父の口癖は「なるようにしかならん」で、何かあると常にそう口にしてきた。Let it beが父の人生哲学だった。海外生活が長いし一度も経験のない実質上の喪主だったが、妹夫婦や葬儀社の計らいで何とかこなすことができた。葬儀の後もいろんな手続きが残ってはいるが、父に倣ってLet it beで乗り越えていきたい。