2009年5月29日金曜日

母の国

摂理の要求に応える為、母として負いきれない責任を抱えながら、身も心もボロボロの状態が続いてきた。本来なら早くに長男やそれに続く子供達が母の状況を思い遣り、一身に背負うものを替わってあげるべきだった。やがては成長し、親に代わって摂理の牽引役を引き受けてくれるものとの期待を抱えながらも、現状は、母の想いは通じず出来ない理由を並べながら相変わらず母が仕方なく背負い続ける事になる。日本の状況を耳にするとき、胸が痛い。先日の会議でも日本からの兄弟が報告の場に立ち、それがビジネス報告でありながらも胸に込み上げるものを覚える。母の国の期待に応えるべく長子の国アメリカに渡りながら、現状は見るも無残な状況で、どのように日本の兄弟に申し訳を立てれば許してもらえるのか。アメリカはアメリカで様々な事情があった結果が今なのだが、では全体としてどれだけ精誠を尽くしたか、それが日本が納得出来るものなのかと問われれば何も言えない。霊界に行って最初に問われ、そして讒訴されるのは日本の食口からだという認識がある。御子女様が日本を訪ねられて、誰一人その深みに触れる事の無かった日本の内情を心配されねぎらわれ、そして新たな方向性を示して下さりながら共にその苦労を背負おうとされる。思い遣り溢れる話された言葉をページに追いながら、日本の兄弟がどれほど慰労されるだろうかと本当に有り難い思いがした。御父様は立場上何も言えない。責め立てながらそうせざるを得ない立場はどれほど胸を掻き毟るほどの想いだろうか。それでも最近になって語られた中に、御父様の感謝の心が骨髄に流れている事を思い頑張って欲しいと、日本の兄弟にその想いを示しておられる。御父母様や御子女様の心情を受け取って、身体を癒し心を明るくし、笑顔が蘇る日本の兄弟であって欲しい。誰よりも誰よりも御父母様の心情に近く、誰よりも誰よりも摂理に貢献し、天地が認める母の国であり母の民であることがどれ程見上げるほどの光り輝く存在であるか。全人類が涙を流して感謝し、天国で胸を張って歩けるその誇りを何としてでも分かって欲しい。

心情伝授式

軍隊に放り込まれたような日本での献身生活は決して楽しいものではなかった。強制的と言うには躊躇するものがあるが、収容所と言えなくはないだろう。その中で生き残ろうと思えば、余程の信仰者か私のような何処にも行き場の無い余程の役立たずかのどちらかだろう。信仰者は毎日実績を出してくる。役立たずははなから闘う事を諦めて手ぶらで帰ってくる。勿論手ぶらで帰って来れば上からの追求は厳しい。信仰者や実力者が外での闘いに勝利して生き残って来たように、役立たずが役立たずとして生き残る為には上の追求に対する自分への責めを受け続けなければならない。それはそれで実績を出し続けると同じくらい大変な事だ。どちらにしろ生き残る事の方が大切であり、華々しい実績をいくら誇らしく思っても離れてしまえば意味はないだろう。日本での歩みで感謝すべき事は、否応無く一線に立たされ、否応無く迫害され蔑視され殴られ中傷され、ありとあらゆることをされたことだ。もし収容所モドキの歩みを否定し、世間一般の人々の様に、同じように会社勤めをし同じように生活していたら、虫けらのように扱われることもなかったろうし、歯軋りするような仕打ちを受けることもなかったろう。顔を背け身体がすくむほどに恐怖でおどおどし、いつも尻をまくることを考えながら、この状況が信仰条件になるなどとはとても思えなかった。献身したての頃はそれでも使命感と誇りで走る事ができたが、年月を経るほどに一軒また一軒と尋ね続け、一歩また一歩と歩み続ける事への力は減り続けた。自分を無理にでも押し出す為に自分で自分の頬を力一杯何度も平手ではりながら、なけなしの力を振り絞った。そうして様々な仕打ちを受けながらも、通過してきた過去を振り返ると、そう言った場でこそ御父様の心情の一欠けら、一欠けらが伝授されてきたのだと思う。心情伝授式がその時その場で執り行われた。その意味では先輩食口が鬼として自分の前に立ちはだかった事は感謝こそすれ恨みに思うべきではない。愛として認識するものを受け取ることは無かったが、自分の骨肉の中から染み出す真の父母の心情を受け取る場であったのだと思い至る。頭が理解する前に、感情が受け入れる前に、真の父母が自分の父であり母であると、この骨がこの肉が、受けた仕打ちを覚えて理解している。

2009年5月27日水曜日

訓読会

訓読会での御父様の口を通して、流れ出るみ言を受けながら、み言の本質を受け取っている者がどれ程いるだろう。次元の違いを超えながら、霊肉を超越されて届くものを、御父様は言葉に乗せて表現せざるを得ない。我々に取って言葉以上の言葉を理解する高次の存在にはなっていない。御父様のみ言は宇宙の言葉であり天宙の言葉であるけれど、我々の思考能力には限度がある。我々は思考できる範囲内に生きている。お父様は限度を超越したところで生活してしておられるのであれば、御父様にしがみ付いて、御父様が見て聞いて生きておられる次元の場に連れて行かれないと、み言の本質を捕らえる事はできない。そう言う意味では御父様と我々はすれ違っている。肉体を纏った真の父母を地上に戴きながら、ある者はその存在を知り、ある者はその存在を知らない。真の父母の存在を知る者でも、その理解は人の数ほどに違っている。食口と人括りにするけれど、自分の中で御父母様の存在は自分の価値を超え生命を超えて最も高みにある価値存在には違いないが、それが皆一様であるとは言えない。明らかに言えることは、今はお父様は肉体を持たれておられるために、誰もが同じ御父様を見上げている。見上げる御父様の存在そのものこそ、我々に取って全てである。我々は御父母様の息子娘であると御父様が認知されたことは、宇宙が天宙が、神様が認知して下さったことと等しい。私がどれ程罪深く、地獄の底で呻くとしても、息子であり娘である私を放って置かれることはない。どんな犠牲を払ってでも救い出すのが親であろう。何万光年の果てまで離れ離れになるとしても尋ねてくるのが親なのだ。み言を語られるその心情は、次元の違う世界で彷徨う我々を、御父母様の安息圏内に入れようと必死なのだ。子としての我々はその親の心情を汲み取りながら、必死で差し出される手に必死でしがみ付く者にならなければならない。毎日の訓読会が当たり前のように行われ、当たり前のようにみ言を語られる。子としての我々の為に多くを犠牲にしておられる、その心情を受け取ることなしにみ言の本質など受け取れるはずは無い。

2009年5月24日日曜日

信仰生活

我々の祈りが神に届かない、と言うより祈ることさえしていない。魂からの叫びこそ祈りと言えるなら我々がお祈りと呼んでいるものは別物に違いない。祈祷による神体験を持たず、擬似祈祷を重ねながら幾ら主の名を連呼しても御父様は訪ねては下さらない。美辞麗句を並べ、原理用語を並べたところで祈祷らしき態度を取ってみたという自己満足のみで、内面の深みに下りながら根源に繋がる接点に達する事はない。救いの歴史は復帰の歴史であり、復帰の歴史は闘いの歴史である。神が取るかサタンかの闘いが瞬時の和解すらなく人類歴史を跨いで延々と続いてきた。メシヤの為の基台を築く為、闘いの闘士としてのアベルであり、家庭的闘士であるヤコブであり、そして民族的な闘士であるモーセだった。み言を真摯に受け取るなら意識圏無意識圏に係らず、この眼で見る事を許されない領域で、自分の魂を引き裂く闘いが繰り広げられていることがわかる。この闘いに意識的に係ることこそ信仰と呼ばれるものだ。よって信仰とは闘いである。信仰があるとは闘っていると言う事である。み言に照らしながら闘う対象を明確に認識し、内的勝利を勝ち取って行く。闘いから逃げれば安息の場で休めるのではなく、その場でサタンが己が魂を掻っ攫っていく。内面の闘いの在り様をつぶさに見届ける霊的感性を備えれば、辟易する闘いの残骸を見ざるを得ない。勝利された真の父母に繋がる自分であると言う意味は真の父母の勝利圏を相続できる自分だと言う意味だが、自分が闘いの中に翻弄されていることを自覚しない限り、勝利圏が必要だという認識もない。御父様の願いを受け取る祝福家庭であるなら、願いに応えたいという熱い想いが噴出すのを覚えて当然なのだ。いろんな理由を並べながら距離を置くこと自体、闘いから逃げ回り、わざわざサタンに魂を差し出していることになる。自分の内面を凝視し、闘いに向かう恐れと臆病な思いを乗り越え、勇気と大胆さを備えてこそ、本当の信仰生活を送ることができ、内面深く下りながら魂の叫びである祈りを届けることができる。

2009年5月23日土曜日

会議の帰りに

定刻七時に飛び立った。夏時間で太陽はまだ高い。早めに空港に着いたもののエコ対策のひとつなのか港内は温度設定が高めで、暑さに弱いアメリカンは流石に皆不機嫌そうだった。そのせいで狭い機内ではあっても涼しい分人心地がつく。私も飛び立って直ぐうつらうつらし始める。夕方東へ向いて飛ぶと日の暮れ方は早い。一時間の時差の分、時間は早回りする。狭いシートに深くかけ直して本に目を通そうとすると、既に高度を下げ始めた。何度か身体が引き下ろされる不快感を覚えた後、左翼をグッと落として大きく旋回していく。楕円の窓にワシントンのモールが映されるはずだ。この瞬間はどうしても逃せない。窓側席ではなかったが身を乗り出すようにしてこの瞬間を待っていた。旋回と同時に夜景が広がり、その中に街灯で縁取られた長方形の区域が浮かび上がってくると、手前からリンカーンメモリアル、ワシントンモニュメント、そしてキャピトルと連なる景色が目の中に飛び込んでくる。夜間照明に映えながら現代のローマの威厳を未だに誇示しているようだ。アメリカ市民であれば何処にいかなくてもここだけは訪れるだろう。広いモール内の一連の建物郡のひとつひとつに足を運びながら自由主義信仰を参拝していく。しかし最近は詣でる人々の様子も変わってきた。かつての厳かさは今では見当たらない。自由主義の下の一枚岩は既に崩れかけている。天を突き刺さんばかりのワシントンモニュメントが角度を変えながら迫ってくる。並み居る聴衆の前にアメリカ救国を訴えたワシントン大会当時の興奮が目の前に蘇る。二十世紀に叫ぶ一つの声として、アメリカに対する神の願いを叫ばれ投入された魂をこの地は受け取っている。上空から見下ろしながら、その叫びを感受できる自分になっているだろうか、その叫びに呼応し新たな衝動を呼び起こす自分になっているだろうかと問うて見る。機内をでると薄暗く人気の無い静かなロビーを人々は足早に散っていく。誰よりも誰よりも御父様から多くを受け取り、多くの負債を抱える自分も、散り消え去っていく内の一人でしかない。私は真の父母に侍る者として、自分が叫ばずに誰に叫べと責任を転嫁するのだろう。

今日の想い 81-2

青春時代の輝く時を横目も振らず活動に没頭してきたが、それが何だったのかとの疑問が多くの兄弟の問いだろう。はたと気付いて立ち止まると、自分は本当は訳も解らず笛吹くままに踊らされていたことに思い至る。信仰が確立され、自分の信じるところを真っ直ぐに突き進んできたと思える兄弟がどれ程いるだろうか。立ち止まる兄弟は立ち止まる事もある意味必要で、真摯に自分の内面に問うてみながら、御父様と自分との関係性、み言がどの様に自分に働きかけ霊的骨身として組成されているか、日々の歩みがどういう意味があるのか、そう言った問いが内面に現れることこそ幼子が物心つくのと同様に、本来の人間存在としての自我の目覚めが始まったと言える。ビジネスに身を置くものなら、MBAの一つでも取得して華々しい経済界で辣腕を振るっていたかも知れない。音楽が好きであれば深い音楽感性を磨きながら、大衆に認知されて目覚しい活躍に身を躍らせていたかも知れない。デザインに関心があれば、服飾を初めジュエリーや店舗内装といった光り輝く場が用意されていたかも知れない。もし、と言う言葉で始まればそれが霧散する夢であることは分かっていながら、もしを事ある毎に並べながらそれはそのまま悔恨へと繋がっている。悔恨の思いに感情魂を漬け込みながらも、み旨と言われる歩みをとぼとぼ惰性に任せて歩む事で、天国が何かも分からない天国行きの保険として、身を祝福家庭の枠組みの中に置いている。こういう異邦人的信仰は絶対信仰とは言えないだろう。どれほど内的らしさを装っても、結局は外的なものに価値を置いていることを露呈している。真の父母の価値を分かろうとすれば自分の価値あるものと本質的価値が同等でなければならない。頭が理解しているかどうかは関係なく、本質的価値あるものにこそ自分の感情や指先が動くと言える自分になる必要がある。外的に輝かしい人生を生きている人を見ながら彼らは地獄に行き、外的犠牲を払った自分は天国に行くというような単純なものではない。華々しい人々の外的輝きを超える内的輝きを発する自分にならなければならないし、透き通った歌声を胸に迫る旋律に乗せ、感動を誘う歌として響いてくる、それ以上の感動的旋律が自分の内面様相として現れなければならないし、外的デザインとしての創造を超える、内的創造を内面に鏤めなければならない。真の父母から流れてくる真の愛で、この世の外的栄華を超える内面の栄華を築き上げている。私達が現実として周囲に現れる事柄はやがては消え行く幻なのだ。自分の周囲に幻が広がっている。幻を幻として見せている本質を捕らえながら、自分の内面と言う真実の世界を築き上げその世界に生きている。

2009年5月19日火曜日

竜神

御父様が揮毫された年頭標語を見るとき、どれ程力強さや近寄りがたい威厳が紙面の上の筆遣いに踊っている事か。字は人を表すと言われるように、筆遣いに書く人の性格や心が表れる。言葉に魂が宿っているように、文字を記す時にその言葉への内的態度が問われ、どれ程上手に記そうとしても上手くはいかない。それは指や手の技量の問題ではなく、言葉を文字と言う記号を使って表す時、言葉にある魂をどう受け入れ、どう自分の中で主管しているかに依っている。私達が文字を組み合わせながら文章を書いているのを霊的な古代人が見ると、この人間は魔術を使っているのだと理解する。それは馬鹿げた事ではなく、眠っている言霊を覚まし、その影響を及ぼそうとするその行為としての魔術が文字という記号を使って書き上げることなのだ。私達は書くことで記憶させたり整理したりするが、ある意味書くことで内的に影響を与えている。訓読というみ言を読み上げることで内的霊的影響を自分の内面に及ぼすように、書くことを通してその影響をより強める。御父様はいつも小さな手帳を携えながら事在る毎に取り出してページをめくり、そこに記された事柄を呼び起こされながら、み言として語って下さる。どんな風に記しておられるのか興味津々であったけれど、最近の映像にカメラが御父様の手元を大きく捕らえ、開かれた手帳の紙面をはっきりと目にすることが出来た。モーセがアロンに杖を投げるように命じると、その杖は蛇になりエジプトの魔術師が秘術をもって蛇に変えた杖を飲み込んだとあるが、御父様の手帳の中の記号としてのみ言に、幾つもの蛇を見る感覚を覚えた。こんな表現をすると気を悪くされるかも知れないが、様々なみ言としての龍を最小化して懐に持たれ、一つ一つ投げると竜神化したみ言がサタンの蛇を飲み込む、そんなイメージだろうか。自分の書いたものはしょうもないミミズが這っているように情けないが、御父様の揮毫を見れば竜神が天空を自由に舞うような、そんな近寄りがたい見上げる威厳を受け取る。小さな手帳から取り出された竜神がその場で勝利の舞を踊っている。