2009年5月29日金曜日

心情伝授式

軍隊に放り込まれたような日本での献身生活は決して楽しいものではなかった。強制的と言うには躊躇するものがあるが、収容所と言えなくはないだろう。その中で生き残ろうと思えば、余程の信仰者か私のような何処にも行き場の無い余程の役立たずかのどちらかだろう。信仰者は毎日実績を出してくる。役立たずははなから闘う事を諦めて手ぶらで帰ってくる。勿論手ぶらで帰って来れば上からの追求は厳しい。信仰者や実力者が外での闘いに勝利して生き残って来たように、役立たずが役立たずとして生き残る為には上の追求に対する自分への責めを受け続けなければならない。それはそれで実績を出し続けると同じくらい大変な事だ。どちらにしろ生き残る事の方が大切であり、華々しい実績をいくら誇らしく思っても離れてしまえば意味はないだろう。日本での歩みで感謝すべき事は、否応無く一線に立たされ、否応無く迫害され蔑視され殴られ中傷され、ありとあらゆることをされたことだ。もし収容所モドキの歩みを否定し、世間一般の人々の様に、同じように会社勤めをし同じように生活していたら、虫けらのように扱われることもなかったろうし、歯軋りするような仕打ちを受けることもなかったろう。顔を背け身体がすくむほどに恐怖でおどおどし、いつも尻をまくることを考えながら、この状況が信仰条件になるなどとはとても思えなかった。献身したての頃はそれでも使命感と誇りで走る事ができたが、年月を経るほどに一軒また一軒と尋ね続け、一歩また一歩と歩み続ける事への力は減り続けた。自分を無理にでも押し出す為に自分で自分の頬を力一杯何度も平手ではりながら、なけなしの力を振り絞った。そうして様々な仕打ちを受けながらも、通過してきた過去を振り返ると、そう言った場でこそ御父様の心情の一欠けら、一欠けらが伝授されてきたのだと思う。心情伝授式がその時その場で執り行われた。その意味では先輩食口が鬼として自分の前に立ちはだかった事は感謝こそすれ恨みに思うべきではない。愛として認識するものを受け取ることは無かったが、自分の骨肉の中から染み出す真の父母の心情を受け取る場であったのだと思い至る。頭が理解する前に、感情が受け入れる前に、真の父母が自分の父であり母であると、この骨がこの肉が、受けた仕打ちを覚えて理解している。

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