2009年5月27日水曜日
訓読会
訓読会での御父様の口を通して、流れ出るみ言を受けながら、み言の本質を受け取っている者がどれ程いるだろう。次元の違いを超えながら、霊肉を超越されて届くものを、御父様は言葉に乗せて表現せざるを得ない。我々に取って言葉以上の言葉を理解する高次の存在にはなっていない。御父様のみ言は宇宙の言葉であり天宙の言葉であるけれど、我々の思考能力には限度がある。我々は思考できる範囲内に生きている。お父様は限度を超越したところで生活してしておられるのであれば、御父様にしがみ付いて、御父様が見て聞いて生きておられる次元の場に連れて行かれないと、み言の本質を捕らえる事はできない。そう言う意味では御父様と我々はすれ違っている。肉体を纏った真の父母を地上に戴きながら、ある者はその存在を知り、ある者はその存在を知らない。真の父母の存在を知る者でも、その理解は人の数ほどに違っている。食口と人括りにするけれど、自分の中で御父母様の存在は自分の価値を超え生命を超えて最も高みにある価値存在には違いないが、それが皆一様であるとは言えない。明らかに言えることは、今はお父様は肉体を持たれておられるために、誰もが同じ御父様を見上げている。見上げる御父様の存在そのものこそ、我々に取って全てである。我々は御父母様の息子娘であると御父様が認知されたことは、宇宙が天宙が、神様が認知して下さったことと等しい。私がどれ程罪深く、地獄の底で呻くとしても、息子であり娘である私を放って置かれることはない。どんな犠牲を払ってでも救い出すのが親であろう。何万光年の果てまで離れ離れになるとしても尋ねてくるのが親なのだ。み言を語られるその心情は、次元の違う世界で彷徨う我々を、御父母様の安息圏内に入れようと必死なのだ。子としての我々はその親の心情を汲み取りながら、必死で差し出される手に必死でしがみ付く者にならなければならない。毎日の訓読会が当たり前のように行われ、当たり前のようにみ言を語られる。子としての我々の為に多くを犠牲にしておられる、その心情を受け取ることなしにみ言の本質など受け取れるはずは無い。
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