2009年5月23日土曜日

今日の想い 81-2

青春時代の輝く時を横目も振らず活動に没頭してきたが、それが何だったのかとの疑問が多くの兄弟の問いだろう。はたと気付いて立ち止まると、自分は本当は訳も解らず笛吹くままに踊らされていたことに思い至る。信仰が確立され、自分の信じるところを真っ直ぐに突き進んできたと思える兄弟がどれ程いるだろうか。立ち止まる兄弟は立ち止まる事もある意味必要で、真摯に自分の内面に問うてみながら、御父様と自分との関係性、み言がどの様に自分に働きかけ霊的骨身として組成されているか、日々の歩みがどういう意味があるのか、そう言った問いが内面に現れることこそ幼子が物心つくのと同様に、本来の人間存在としての自我の目覚めが始まったと言える。ビジネスに身を置くものなら、MBAの一つでも取得して華々しい経済界で辣腕を振るっていたかも知れない。音楽が好きであれば深い音楽感性を磨きながら、大衆に認知されて目覚しい活躍に身を躍らせていたかも知れない。デザインに関心があれば、服飾を初めジュエリーや店舗内装といった光り輝く場が用意されていたかも知れない。もし、と言う言葉で始まればそれが霧散する夢であることは分かっていながら、もしを事ある毎に並べながらそれはそのまま悔恨へと繋がっている。悔恨の思いに感情魂を漬け込みながらも、み旨と言われる歩みをとぼとぼ惰性に任せて歩む事で、天国が何かも分からない天国行きの保険として、身を祝福家庭の枠組みの中に置いている。こういう異邦人的信仰は絶対信仰とは言えないだろう。どれほど内的らしさを装っても、結局は外的なものに価値を置いていることを露呈している。真の父母の価値を分かろうとすれば自分の価値あるものと本質的価値が同等でなければならない。頭が理解しているかどうかは関係なく、本質的価値あるものにこそ自分の感情や指先が動くと言える自分になる必要がある。外的に輝かしい人生を生きている人を見ながら彼らは地獄に行き、外的犠牲を払った自分は天国に行くというような単純なものではない。華々しい人々の外的輝きを超える内的輝きを発する自分にならなければならないし、透き通った歌声を胸に迫る旋律に乗せ、感動を誘う歌として響いてくる、それ以上の感動的旋律が自分の内面様相として現れなければならないし、外的デザインとしての創造を超える、内的創造を内面に鏤めなければならない。真の父母から流れてくる真の愛で、この世の外的栄華を超える内面の栄華を築き上げている。私達が現実として周囲に現れる事柄はやがては消え行く幻なのだ。自分の周囲に幻が広がっている。幻を幻として見せている本質を捕らえながら、自分の内面と言う真実の世界を築き上げその世界に生きている。

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