2009年5月24日日曜日

信仰生活

我々の祈りが神に届かない、と言うより祈ることさえしていない。魂からの叫びこそ祈りと言えるなら我々がお祈りと呼んでいるものは別物に違いない。祈祷による神体験を持たず、擬似祈祷を重ねながら幾ら主の名を連呼しても御父様は訪ねては下さらない。美辞麗句を並べ、原理用語を並べたところで祈祷らしき態度を取ってみたという自己満足のみで、内面の深みに下りながら根源に繋がる接点に達する事はない。救いの歴史は復帰の歴史であり、復帰の歴史は闘いの歴史である。神が取るかサタンかの闘いが瞬時の和解すらなく人類歴史を跨いで延々と続いてきた。メシヤの為の基台を築く為、闘いの闘士としてのアベルであり、家庭的闘士であるヤコブであり、そして民族的な闘士であるモーセだった。み言を真摯に受け取るなら意識圏無意識圏に係らず、この眼で見る事を許されない領域で、自分の魂を引き裂く闘いが繰り広げられていることがわかる。この闘いに意識的に係ることこそ信仰と呼ばれるものだ。よって信仰とは闘いである。信仰があるとは闘っていると言う事である。み言に照らしながら闘う対象を明確に認識し、内的勝利を勝ち取って行く。闘いから逃げれば安息の場で休めるのではなく、その場でサタンが己が魂を掻っ攫っていく。内面の闘いの在り様をつぶさに見届ける霊的感性を備えれば、辟易する闘いの残骸を見ざるを得ない。勝利された真の父母に繋がる自分であると言う意味は真の父母の勝利圏を相続できる自分だと言う意味だが、自分が闘いの中に翻弄されていることを自覚しない限り、勝利圏が必要だという認識もない。御父様の願いを受け取る祝福家庭であるなら、願いに応えたいという熱い想いが噴出すのを覚えて当然なのだ。いろんな理由を並べながら距離を置くこと自体、闘いから逃げ回り、わざわざサタンに魂を差し出していることになる。自分の内面を凝視し、闘いに向かう恐れと臆病な思いを乗り越え、勇気と大胆さを備えてこそ、本当の信仰生活を送ることができ、内面深く下りながら魂の叫びである祈りを届けることができる。

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