人間のもっとも人間らしい情の部分を冷たく凍らせて、頭ばかり巨大になったインテリヤクザ達だが、ここにきて尻尾を握られ逃げられない状況になっている。彼等の狙いは彼等が統治する一つの世界、グローバル全体主義だ。カインの系統を持つ彼等は、終末時代最後の最後まで世界覇権を握るべく、知の粋を結集して神に挑んできた。カナンの地を望むモーセの如く、頂きを目前にしながら偽りの信用が弾けると同時に彼等の覇権のバブルも弾け飛ぶかもしれない。信用だと言い張る彼等の銀行システムの基は、金の預かり商の偽り証書から始まった。どうせ預かり手形が紙幣としてやりとりされ、手形を現物(金)に変えようとする者はわずかだから(1割)、9割の偽手形を出してもばれることはない。彼らのいう信用とは如何に騙すかという意味だ。金融自由化によって今は誰もが同じシステムで資産を膨らませることが出来る。モノやサービスの生産ではなく金融派生商品で資産を膨らませるという、人口何億かが総銀行屋になっている。事実上そうだから金魚鉢にクジラを放り込むように実物経済に金融経済を放り込んでいる。シリコンバレー銀行もクレディスイス銀行も、金利の上昇でアブク資産の含み損が大きくなりすぎて銀行間取引ができなくなってしまった。もちろん銀行はどこもかしこも同じようなもので皆が皆多大な含み損を抱えている。銀行間は偽りの信用関係で固く連結されているから、決して破綻が数行に留まることはあり得ない。今こそカインの血統の悔い改めと良心の目覚めが望まれてはいるが、おそらく無理だろうしアベルの血統である宗教圏ですら彼等に懐柔されているであろう疑惑に事欠かない。アボジがもし生きて摂理を牽引しておられるなら、北の白熊ヤクザや、カインの血統がサタン化したインテリヤクザにどう働きかけられるのだろうか。今はSNSで破綻の噂情報は瞬時に世界を駆け巡り、ネットバンキングで瞬時に預金も引き出せる。バンクラン(取り付け騒ぎ)も一瞬で起こるのであり、銀行連鎖破綻も一瞬だ。そうなると銀行の預かり手形である紙幣も、一瞬でただ燃やすだけの紙切れと化す。しかし盤石で平安を謳う中銀と政府によって、社会は不気味なほど静かだ。
2023年3月30日木曜日
2023年3月23日木曜日
今日の想い 1229
地上の被造物が光りを反射して存在を現すためには太陽が不可欠であるように、万物の生命と息吹を与えて霊的に光り輝かせるためには主体が必要だ。それこそが万物の主管主だ。人類の歴史は、正しくみ旨の願い通りには主管主の位置に立ててはいない。科学は発達して如何にも快適生活のための環境主管が出来ているように見えるが、科学がどれほど発達しても、すなわち外的扱いがどれほど進化しても、内的霊的な態度と接し方を神霊に学ばなければ地上はモノの塊の展示場に過ぎない。鉱物は元素という体に閉じ込めていて生命の欠片もなく、植物は生命体としての認識だけは持っているものの知情意の魂に近づけることはないし、動物は情をそれなりに通わせ知能を刺激はしているが、かといって自我としての心情世界とは程遠い。被造物がそのヒエラルキーの枷を外すのは霊界であり、よって地上世界は人類の霊的成長と人間の主管内容によって被造物は異なる顔を見せる。堕落人間にとって被造世界は死んでいるのであり声を発することはないが、霊を備えている人間には生きて声を発する。そしてその声は霊的感性に届く。
2023年3月19日日曜日
今日の想い 1228
金という現物が金現物と交換できる証書紙に変わり、証書紙がいつしかバンクに打ち込まれる数字に変わった。証書紙ならまだ金現物の実感を持てていたが、打ち込まれた数字にもその実感があるかというと、周りの人々が実感があるものとして扱っているからそれを信じているだけのことだろう。証書紙(紙幣)にはまだ手に触れる実感があるが、数字にはそれすらない。実感が全くなければ妄想世界の存在でしかない。意識の地上世界と無意識の霊界、その狭間に心魂世界妄想世界があり、実体のない数字はどう意識の紐付けが為されているかで、霊界に籍を置いて心魂を通して届いているのか、或いは霊界に籍がない妄想が作り出した偽りの影として届いているのかが決定される。意識の紐付けとは、どういう認識を持って待遇と態度で接し扱うかという意味だ。物を生命のないモノとして扱うとそこに内的霊的生命を吹き込むことはできない。生命のない死んだモノは死への淵に誘うばかりだが、内的霊的生命を吹き込んだ万物は私を授受作用の歓びに導く。万物主管とは私と対象物の生命と愛の遣り取りだ。被造物が嘆き悲しんでいるのは、人類の堕落で霊的死に至った人間からは、もはや吹き込まれるはずの霊的生命を期待できないからだ。ここまで金融経済が発展したのはカインの末裔、石工の科学技術によるものだが、金融バブル崩壊は死の淵に追いやった被造物達が団結して声を上げ訴えた叫びであり、妄想を限界まで膨らませて爆発させ死の淵にもろとも堕とそうとしている。しかし人類の態度如何によっては、すなわち霊的生命を蔑ろにしてきたことの悔い改めと、被造物万物をモノとしてしか扱ってこなかったことへの謝罪を込め、通貨へ如何に生命を吹き込むかに真摯に向き合えば、天宙の進化と発展になくてはならない人類の友となるだろう。
今日の想い 1227
金融バブルの意味をしっかり把握する必要がある。債権の膨らみばかりに意識を持っていきがちだけれど、誰かの債権は誰かの負債であり、トータルの債権が膨らめば同じようにトータルの負債も膨らんでいる。会計に少しでも関わっていれば自ずと理解できるが、ようはバランスシート、賃貸対照表であり、デビット一方だけが膨らむことなどあり得ない。しかし世情に現れる場合、時差で、あるいは交互に世情空気という感情に現れるものだから、バブル景気と言われるように喜びの興奮だけをバブルとしている。喜びの興奮と悲しみ怒りの落胆とは対になっていて、この両者でバブルだ。本来、リーマンショックの時が興奮から落胆へのターニングポイントだったはずだが、FRBは金融緩和(QE)というカンフル剤を嫌というほどに金融経済に注入して、興奮の山頂を更なる高みにと世界を仕向けてしまった。リーマンショックでさえ米国全ての銀行が保有債券の含み損で破綻しかけていたのに、キリマンジェロ級の最大のバブル興奮、それに追随するバブル落胆は金融システムを一瞬で崩壊させる核爆弾を抱えていて、リーマンショックどころの比ではない。その地獄を垣間見たのか、バイデンとパウエルはSVBの取り付け騒ぎに一瞬で蓋をしてしまった。引き締めでバブルの沸騰度合いを下げ始めた矢先の突発風船破れに、あろうことか緩和と利下げをちらつかせ、取り敢えずの全預金保護という鎮静剤もどきで蓋をして繕った体にした。そんな小手先に耐えられるバブルであるはずはないが、後の祭りで安全だ安心だと叫ぶ以外何もできない。これから何度鎮静剤もどきを重ねられるだろう。すでにバブル興奮は臨界点を超えている。金融核爆弾は意識の下で破裂し、その破壊の風圧と底なしの落胆を瞬時の未来に経験するかもしれない。
2023年3月6日月曜日
今日の想い 1226
教会に導かれ信仰に入ったのも私に対する摂理であり、教会の直接的関与から抜けたのも私に対する摂理だった。原理とみ言葉から受け取ったものは、人生観と善悪観に大きく影響を与えたが、善悪の判断はその時代時代に於いて変化していくものであり、善悪観を絶対不変のものとするのは原理とみ言葉に反している。食口はやってきたことに対して敢えて正当化してみたり、罪悪感を持ったりしているが、当時はそれを善とみなしそうしなければならない摂理的事情があり、そして今は過去の事実を否定的に受け入れなければならない摂理的事情がある。先天を主管していた神霊から、後天を主管する神霊にバトンタッチされたという霊的事実を認識できれば、自分の内的霊的立ち位置も変わることを自ずと理解できる。陽暦に閏月のある陰暦が主体的に関わるようになった意味は、後天を主管する神霊によって嚙み合わずに外れていた一つのギア(月)が組み合わされて影響を及ぼすようになっている。アボジが陰暦を中心とするように配慮されたのには大きな意味があるし、過去判断したと同じように悪と決め付け叩いているけれども、後天に入った今の時代霊の判断は異なっている。全体一辺倒の全体主義でもなければ個の自由優先の民主主義でもない、高次の神霊を動かすことができる心情こそが優先される時代に必ず舵がとられる。ロシアの白熊ヤクザが自らの命も顧みず身を挺して主導しているのは、西側に抑圧され略奪されてきた民たちへの想いと西側への憤りからであり、それが図らずも神霊を共感させている。この戦いは白熊の思い入れが強い分、既に決着がついている。西側は自由をぶら下げて民衆を洗脳し手名付けるインテリヤクザが主導しているが、どっちのヤクザに覚悟と肝が据わっているかは明らかだ。世界にしろ国家にしろ、教会にしろ家庭や個人にしろ、後天時代に合わせて変わらざるを得ないし、変わるためには当然戦う必要がある。神霊が指導する霊的な流れの方向性や激流なのか急流なのか、何を突破しようとしているのか、等を見る摂理観を見届けた者こそが霊的戦士であり新たな時代の覇者になる。
2023年2月10日金曜日
今日の想い 1225
私達が求めた救いとは何だったのか。先ず私は何から救われたかったのだろうか。私の求めた救いは食口が一様に求めた救いと同じものだとは思わないが、それでも全体で認識していた救いが私の救いを満たしていたということ。前にも記したが、私自身は人生の不可解に相当打ちのめされていたから、信じるに値する信仰対象を得たことで八割がた私の悩みは解消していた。解消はしていたが、信仰対象を得たことで別の悩みは起こってくるわけだが、しかし魂を食まれるような悩み、絶望的な苦痛からは逃れることが出来た。新たな悩みは私の内向性からくるものだったが、それを否定したり改善したりというよりは、内向性は私自身でもあるから外向性を要求される活動に対してもっぱら耐え忍ぶこと以外考えなかった。全体目的と個体目的が相反しないのであれば、いつか自己犠牲が救いをより堅固なものにしたという認識を得られると信じて耐え忍んだ。そんな私が聖和されてからより思うのは、信仰の在り方も変わっていくし成長するということ、いや変わるべきだし成長すべきだろう。幼子のような信仰とは言われてきたが、果たして年月に反して幼きままでいいのかどうかを意識するようになった。救いの観点から単純な話をするなら、救われたいという信仰動機から救いたいという信仰動機への変化というか成長というか、を見るべきだ。成長すべきという信仰観から摂理を見直すと、後天時代の摂理観は先天のそれとは確実に異なるはずだ。御父母様の位置を誰が相続するのかという課題も、アボジが我々に対して真の父母になるようにと話されたことも併せて鑑みると、或る特定の人物や家庭をその位置に立てるべきかどうかは自ずと理解できるだろう。それは決してみ言葉の否定でもなく御父母様の否定でもない。
2023年2月4日土曜日
今日の想い 1124
一方で全体主義があり、それに対する個人主義がある。全体主義に傾きすぎると個の否定であり、個人主義に傾きすぎると社会の否定になる。共産党一党独裁の国は全体主義国家だろうし、グローバリスト達が目論むボーダーレス社会も、何某かの権威集団独裁のグローバル全体主義世界だ。現代人は個人個人では生きられないから何らかの社会によって生かされている。よって完全な個人主義国家というのは当然あり得ないが、民主主義という或る意味の妥協主義によって世界平和を目指して来た。しかし暫定的な妥協主義であるだけにここにきて行き詰まっている。さて私達が目指すべきとされてきた共生共栄共義主義社会だが、全体の為に個を犠牲にする思想が基にあるのだから民主主義よりは全体主義的だろうと思われる。思われるとしたのはその社会について深く尋ねたことがないからだ。それは私だけではなく殆どの食口は尋ねる意志も余裕も持たなかったはずだ。私達が同じ思想を持つ私達だけで国家を形成するとして、どう共生共栄共義主義社会を目指していいのかわからない。信仰論理は理解しても、意外と私達の理想イメージは説明もできない貧弱なものだった。ただただメシヤであるアボジに従っていれば、自動的に地上天国であるそういう社会になると信じていた。目指す社会がどうであるかは置いておくとしても、アボジの指示絶対の、メシヤ権威による全体主義であるのはそうだった。