アボジが基元節を迎えることができず、それを目前にされながらも聖和されたように、一世達は本体論の中心である絶対性を、自分の概念として捉えることができずにあの世に旅立つ。一世は既に終活の時期に入ってどんどん旅立っているのだから、別にそんなことは関係がないと思うだろう。そうなのかも知れないが信仰の結論であり果実として提示された絶対性だという認識がある者にとっては、先行き短い人生を想い、それならばせめて子供達二世にその結論を伝えて霊界人事を迎えたいと思うのは当然だし、絶対性という創造秘儀を伝えなくて何を二世達に伝え残すのだろう。二世達には祝福を与えたことで十分親としての役目を果たしている、勿論そう思うだろう。しかし祝福の本質は性による血統転換にあり、親が既に血統転換されているのにどうして子供たちに血統転換が必要なのか。二世に与える祝福は、一世が御父母様を通して受けた祝福とは意味合いが異なっている。一世が祝福の本質を受け取れずに、すなわち祝福を受けても血統転換されずに、その形だけに執着して受け継いでいくのであれば、それは二世を血統転換させて一世がそれに繋がる必要はあるのかも知れない。しかし大方の祝福家庭は、子供達が形の上で祝福を受けるのが最重要課題であって、祝福さえ受ければ安堵しているのが実情だ。おそらくそういう祝福家庭は信仰が実って神に愛された勝ち組だと思っている。しかし全体と個は通じていて、各家庭の血筋という縦割りではなく、全体あっての個であり個あっての全体で、勝ち組も負け組もない。子女が様々な立場にある祝福全体の状況を神様がどう捉えておられ、また摂理的位置付けとしてどう働かせるかだ。その点に関しては御母様の見解を何としても知りたい。その見解次第で私に対する御母様の権威が決まってくる。祝福の本質は血統転換にあるし、血統転換は性なくしてはありえない。
2023年6月28日水曜日
2023年6月27日火曜日
逍遥から本殿に向かって 21.
クリスチャンはクリスチャンで教条的縛りがある。キリスト教会は人類始祖の堕落によって本来あるべき精神が欠けているという教えだ。本来の人間は体と心と精神(霊)の三段階(三要素?)から成り立っているということだが精神が備わっていないので地獄に落ちるという教えだ。よって教会に繋がってキリストの精神を受け取らない限り天国の民にはなれない、という縛りがある。クリスチャンに取って少なくとも日曜日だけでも教会に行くのは縛りとして刷り込まれているからに他ならない。そして信仰が強まるにつれ縛りは増していく。クリスチャン達に縛りがあり、統一食口にも信仰故の縛りがあり、どちらにしても宗教を超える意識や運動に至る自由の翼は信仰が縛りとして働きお預け状態だ。それでは信仰することで精神の自由を得るためにどうすればいいか。信仰は本来信じることで認識に至ることであり、認識に至ればその認識に対する信仰は役目を果たしたことになる。しかし認識を得ることができなければ信仰を生涯どころが永遠に備えざるをえない。問題は信仰経験に認識を得たという体験が無い、あるいは少なくて無意識のうちに信仰は実らないものと洗脳されたまま、信仰=縛りとなって自動変換されてしまっていることになる。本体論の中心である絶対性を得る前段階として、精神の自由(霊的自由)という翼が必要であり、その為には今の現状である信仰が縛りに取って代わった事実を先ず認めなければ先には進めない。私達の思考や歩みが本当に神による善悪に根差したものであるのか、それともただの縛り、すなわち自分の中の恐れの感情がそうしているのにそれを敢えて放置したまま、良心の声だと言い聞かせ神様による善悪観を立てたつもりでいるのかどちらだろうか。後者であれば性は永遠に堕落圏のことであり口にすることすら憚られサタン視され、夜の神様が主管する聖なる性とは永遠にならないだろう。
2023年6月22日木曜日
逍遥から本殿に向かって 20.
人間の度量は何によって決められるかというと、欲の強弱によって決められる。あくまで度量であって人間性の良し悪しをここでは扱わない。度量は小欲に生きるか大欲に生きるかで決められる。人間は地上存在、すなわち色の世界、欲の世界の存在だから、どんなに聖人君子面していようが欲の存在であり勿論聖人君子すら地上にいる間は欲在りきの存在だ。食口は自分は欲を捨てていると誤解しているけれども、欲を制御してこそ行ける天国を信じそこに行きたいが為に教条生活を頑なに守っている。それを大欲と言えるのかどうかはそれぞれの良心に任せるとして、欲を捨てたつもりでもやはり別の欲に生きている。アボジが、あんた達は欲が強いよと言われたのはその通りだし、しかしその欲心を悪として否定はされなかった。そう言われたのには大欲に生きろという意味が含まれていたと私には思えた。食口は教条生活によって去勢されてしまって、大欲がもてない歪な存在になってしまった。それでも昔は世界復帰の闘志を燃やしていたし、地上天国実現の暁には世界をフリーパスで旅行できるとか様々な地上的成就も中心者を囲みながら毎晩語り合っていた。そんな子供染みた願望だとしても今の食口達はそれすらないだろう。見てもいない天国を夢見て黙々と従い、そんなはずではなかった霊界生活をやがて送ることになるかも知れない。どんなに高い志を持とうとしても、それを本気で自分の事としなければいつまでも御題目を唱えるのみで、御題目を唱えながらこの世を去ることになる。そんなツモリナールで頑張りましたと天に報告できると思ったら大間違いだ。唱えること自体が目標で果たすつもりは最初からなかったことに弁解の余地はない。自分の使命を自分なりに認識したのなら、その使命貫徹の為に自分の欲心ベクトルを同じ方向に合わせた意志として持たない限り実現性はほぼない。会社の資産を増やすとして、それを通して自分の懐も増やすことでその動機や意志を堅固なものとできる。会社が大きくなるために精一杯尽くしますと頑張った社員に対して、何の報酬も与えなければ、たとえ社員の不平はその場では無かったとしても社員の成長は止まったままだ。実際日本の食口達はそんな扱いを受けてしまい、自分への投資を蔑ろにされたままで成長していない。それは私への自戒も含めてのことだ。おそらくここで話している欲は財欲を含めた社会欲と扱われるかも知れないが、食欲と生命力が繋がっているように、性欲と霊力も繋がっている。不倫だとか回数だとかに持っていきがちだがそれは度量の問題ではなく地上的社会的な話であって、本然の性欲は当然愛が関与しているし一つになって創造したいという霊的な創造意志が働いている。
2023年6月20日火曜日
逍遥から本殿に向かって 19.
日本人の道徳観として欲がないことを良しとする傾向がある。金もないしこれといった地位も名誉もないけれども、大病もしてないしそれなりに平安に生活していける。そんなことを有難く思うといった具合だ。しかし地上は欲望を持ってなんぼの色の世界だ。欲がなければ周りの風景や環境圏はモノクロでグレーの世界でしかない。はっきり言って勿体ない。お隣の国韓国を見れば権力者の欲望たるや、降ろされたときの反落人生の酷さを見ればわかるように、今の権力を保持しているうちに使える限り使って欲望を叶える、そんな生き様のオンパレードだ。ギャンブル人生と言えば言えなくもないが、欲望を叶えてなんぼの色の世界を生きている。日本人の感覚からすれば理解できないが、掴める願望が目の前に横たわっているのに手を出さない私達を逆に彼等は理解できない。しかし創造意志が働くのは欲あってのことだ。意志あるところに道ありの前に、創造意志あるところに先ず欲ありだ。将来的イメージ達成への願望が強ければ強いほど、夢は実現して実る。はっきりいって技術がどうだとか頭がどうだとかほぼほぼ関係ない。欲が強くて意志が明確であればそんなものは後から付いてくる。人間の本能に由来する性欲は、それが強いほど生きる力は強いしのし上がる力も強いと言われる。英雄と呼ばれる人物は必ずと言っていいほど下半身が盛んだ。統一信仰を持って戒めとして最も強く言われるのがアダムエバの問題だが、食口の多くは去勢された牛となって従うのみだが、自分を主体に立てる食口もいる。食口の中でも欲の強い者の行動には二通りあって、自分には合わないものとしてすんなり離教するか、逆に中心者として立って権力を欲望実現のために使うか、というこの二つの選択のどちらかを選ぶ。概して中心者、特に韓国の中心者は後者を選択したのであり、何をするにしても欲望を叶えることを考えている。それは願われた目標達成も褒美を自分に与える為に行動している。与えられた目標の公的題目と同時に私的願望も無ければ、どんな目標を立てるにしても絵に描いた餅でしかない。財欲や性欲を権力を用いて満たす者もいる。原理の教えによって抑え込んでいた欲望が、一端それなりの理由や言い訳を得ることで、抑え込んでいただけにその爆発力は何倍にもなる。はからずも彼等は神霊にしろ堕落天使長の霊にしろ自らの願いと駆け引きし、それ相応の創造意志を強くしながら発展させたはずだ。男は女を通して位相を高くし、女は男を通して位相を高くするのであり、そうしながら創造意志を強くするのは歴史を通して明らかであり、教会組織の発展もそれに違うことはない。アボジも女性を経ることで霊的位相を高くされてきた。一言付け足せば、統一信仰を備えてアボジを慕う女性は全てアボジの女であり、祝福は形の上ではアボジの女を天使長の位置にある男たちに下賜された立場だ。相対との性的な深みがあって霊的感性は広がりを見せる。すなわち性を通して心情は深く厚くなる。
2023年6月18日日曜日
逍遥から本殿に向かって 18.
2023年6月17日土曜日
逍遥から本殿に向かって 17.
統一食口が霊界に行くと、同じ霊界位相である食口達が一同に集まって暮らす統一村があるらしい。そして次の話が何とも私達の心の陰りを一層暗くする話なのだが、それぞれが犯した罪をプラカードのように首から下げて会う食口、会う食口全てがそれを目にし、生前の行いや罪状を把握できるとしている。それが天国か地獄かと言うと誰一人それは素晴らしい天国生活だとは言わないだろう。そんな地上的イメージを描いている時点でそれは霊界とは何ら関係のない、敢えて言えば霊的位相の低い私達に恐れを抱かせて、すなわちサタンの知恵を借りて手名付けようとする悪度さが見える。そんな説明で頷くほどに霊的感性の低い時期もあったということだろう。人間は肉身と霊人体とで人間であって、肉身だけの人間などいない。地上生活は肉身だけの生活で肉身を脱いで初めて霊人体が用意される、と言うことではない。地上生活しながら霊人体の成長も為して霊的生活も同時的にしている。というか霊は時空を超えているので同時的という言い方はおかしいが、人間は地上と霊界の両方に跨っている。肉身があり霊人体があり、そして肉身と霊人体を繋ぐ魂がある。そうなると三つの在り様があるとなってしまうが、魂は肉身と霊人体の一つになった在り様と言ってもいいかもしれない。はっきりいって食口には恨みがある。教条的縛りによって抑えられた自我を強いられたことへの恨みだ。それは本人にしてみれば無意識の底に我知らず封をしたままで見ずにいるが、それは人生を通して自由なる精神を奪われているという恨みだ。時としてその恨みの断片が表面に覗こうとすると、その都度浮かぶ思いがある。どうしてみ言葉を聞いてしまったんだろうという恨み言だ。霊界に行って、自分の行くところが天国かどうかはわからないが、その恨みが大方の食口にあって、解放されない世界が自分の内面の表れとして霊界の環境に現れるはずだ。自由精神を育んできた人間であれば、もっと主体的でありもっと能動的で肯定的だ。霊界を知らされながら霊的感性も本当の霊的価値もものにしていないという、この皮肉の悲しさが常に教会に漂っている。常に自分を縛ることに汲々としてきたから、罪を掲げて枷を自らに嵌めて暮らすという霊界の生活は以外と的を射ているのかも知れない。そんな食口達は今こそ一点突破であり全面展開だ。性には内面を開放させる神霊の作用が認められる。解放されればこそ受容の胸襟も大きく開いて邪悪な霊的要素も簡単に受容してしまうということもあるのだが、そこは縛りが正しく働いて相対以外の相手を持つことはないだろうから、相対間でこの創造の秘儀をしっかり研究すればいい。先ずは見つめ合うことからだろうか。海外で生活すればわかることだが、日本人は他と比べて目を見て会話することや見つめ合うことが本当に少ない。授受作用は先ずそこからだ。
2023年6月16日金曜日
逍遥から本殿に向かって 16.
本体論は講論のような文章表現で表したものではなく、講義案のように箇条書きであったり図が使われたりしていて、それを追っていくだけではさして過去に記されたものと比べ何ら目新しさはないように思える。確かに堕落した下からの目線ではなく、創造された神様からの目線で表されたのが本体論だと説明されればそういうことかと納得するとしても、しかしそれで新たな動機が発動されるわけでもないだろう。おそらく殆どの食口は本体論の名称だけを知っていて内容がどうだったかも説明できない。本体論は夜の神様の目線であっても、昼の神様はまだ論理的に説明されればその在り様は理解できるが、夜の神様は論理を超え知情意を超えているのでこれが本体論ですと差し出されて読み進んでも理解はできない。知情意を超えて、すなわち霊的感性を働かせなければ理解できない。食口の誤った唯物論的霊界観で見通せるものでは決してない。そして本体論の中枢は絶対性だ。晩年よく話されていた性と生殖器の話は実は本体論の話だ。そして夜昼の神様も本体論の話だ。堕落圏を超えたその話は堕落圏に留まる限り下ネタと吹聴されてしまって今は誰も触れようとはしない。事実アボジは一連の本体論の話をされながら堕落圏を超えた先のエデンの園を見据えておられた。しかしながらモーセがカナンの地を望みながら足を踏み入れることができずに死んだように、アボジもエデンの園を見据え踏み入れる基元節を目前にしながら、その日時まで示されながら足を踏み入れる前に連れていかれてしまった。今となっては夜の神様を代表する神々が地上に降り下るXdayで直接権威を示される現実を見ることはなかった。驚天動地の指示が下される予定だったはずだが、夜の神様の顕現は下りず宗教圏を超えない昼の神様のまま基元節は遣り過ごされてしまった。夜の神様の出自であるアボジから祝福を通してその分霊を戴いた私達であっても、霊的感性も開拓されておらず摂理的使命に対しても疎いままで、そんな私達にアボジの描かれたエデンの園は見えているだろうか。しかしそうであっても人類の未来は私達に掛かっている。今は良心を通してしかアボジに繋がる道はないとしても、訝しくも下手な神託を仰ぐのではなく、アベルに摂理的願いの判断を丸投げするのでもなく、必ず良心を通してアボジの願いが届くはずでその意識で良心を強くし、また開拓すればいい。言われるがまま闇雲に動いて、社会に独善的脅威を与えて、稚拙な復帰計画を掲げて上げ足を取られて、それはサタンですら相手にしない。