2023年6月27日火曜日

逍遥から本殿に向かって 21.

 クリスチャンはクリスチャンで教条的縛りがある。キリスト教会は人類始祖の堕落によって本来あるべき精神が欠けているという教えだ。本来の人間は体と心と精神(霊)の三段階(三要素?)から成り立っているということだが精神が備わっていないので地獄に落ちるという教えだ。よって教会に繋がってキリストの精神を受け取らない限り天国の民にはなれない、という縛りがある。クリスチャンに取って少なくとも日曜日だけでも教会に行くのは縛りとして刷り込まれているからに他ならない。そして信仰が強まるにつれ縛りは増していく。クリスチャン達に縛りがあり、統一食口にも信仰故の縛りがあり、どちらにしても宗教を超える意識や運動に至る自由の翼は信仰が縛りとして働きお預け状態だ。それでは信仰することで精神の自由を得るためにどうすればいいか。信仰は本来信じることで認識に至ることであり、認識に至ればその認識に対する信仰は役目を果たしたことになる。しかし認識を得ることができなければ信仰を生涯どころが永遠に備えざるをえない。問題は信仰経験に認識を得たという体験が無い、あるいは少なくて無意識のうちに信仰は実らないものと洗脳されたまま、信仰=縛りとなって自動変換されてしまっていることになる。本体論の中心である絶対を得る前段階として、精神の自由(霊的自由)という翼が必要であり、その為には今の現状である信仰が縛りに取って代わった事実を先ず認めなければ先には進めない。私達の思考や歩みが本当に神による善悪に根差したものであるのか、それともただの縛り、すなわち自分の中の恐れの感情がそうしているのにそれを敢えて放置したまま、良心の声だと言い聞かせ神様による善悪観を立てたつもりでいるのかどちらだろうか。後者であれば性は永遠に堕落圏のことであり口にすることすら憚られサタン視され、夜の神様が主管する聖なる性とは永遠にならないだろう。

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