2023年6月16日金曜日

逍遥から本殿に向かって 16.

 本体論は講論のような文章表現で表したものではなく、講義案のように箇条書きであったり図が使われたりしていて、それを追っていくだけではさして過去に記されたものと比べ何ら目新しさはないように思える。確かに堕落した下からの目線ではなく、創造された神様からの目線で表されたのが本体論だと説明されればそういうことかと納得するとしても、しかしそれで新たな動機が発動されるわけでもないだろう。おそらく殆どの食口は本体論の名称だけを知っていて内容がどうだったかも説明できない。本体論は夜の神様の目線であっても、昼の神様はまだ論理的に説明されればその在り様は理解できるが、夜の神様は論理を超え知情意を超えているのでこれが本体論ですと差し出されて読み進んでも理解はできない。知情意を超えて、すなわち霊的感性を働かせなければ理解できない。食口の誤った唯物論的霊界観で見通せるものでは決してない。そして本体論の中枢は絶対だ。晩年よく話されていた性と生殖器の話は実は本体論の話だ。そして夜昼の神様も本体論の話だ。堕落圏を超えたその話は堕落圏に留まる限り下ネタと吹聴されてしまって今は誰も触れようとはしない。事実アボジは一連の本体論の話をされながら堕落圏を超えた先のエデンの園を見据えておられた。しかしながらモーセがカナンの地を望みながら足を踏み入れることができずに死んだように、アボジもエデンの園を見据え踏み入れる基元節を目前にしながら、その日時まで示されながら足を踏み入れる前に連れていかれてしまった。今となっては夜の神様を代表する神々が地上に降り下るXdayで直接権威を示される現実を見ることはなかった。驚天動地の指示が下される予定だったはずだが、夜の神様の顕現は下りず宗教圏を超えない昼の神様のまま基元節は遣り過ごされてしまった。夜の神様の出自であるアボジから祝福を通してその分霊を戴いた私達であっても、霊的感性も開拓されておらず摂理的使命に対しても疎いままで、そんな私達にアボジの描かれたエデンの園は見えているだろうか。しかしそうであっても人類の未来は私達に掛かっている。今は良心を通してしかアボジに繋がる道はないとしても、訝しくも下手な神託を仰ぐのではなく、アベルに摂理的願いの判断を丸投げするのでもなく、必ず良心を通してアボジの願いが届くはずでその意識で良心を強くし、また開拓すればいい。言われるがまま闇雲に動いて、社会に独善的脅威を与えて、稚拙な復帰計画を掲げて上げ足を取られて、それはサタンですら相手にしない。

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