日本人の道徳観として欲がないことを良しとする傾向がある。金もないしこれといった地位も名誉もないけれども、大病もしてないしそれなりに平安に生活していける。そんなことを有難く思うといった具合だ。しかし地上は欲望を持ってなんぼの色の世界だ。欲がなければ周りの風景や環境圏はモノクロでグレーの世界でしかない。はっきり言って勿体ない。お隣の国韓国を見れば権力者の欲望たるや、降ろされたときの反落人生の酷さを見ればわかるように、今の権力を保持しているうちに使える限り使って欲望を叶える、そんな生き様のオンパレードだ。ギャンブル人生と言えば言えなくもないが、欲望を叶えてなんぼの色の世界を生きている。日本人の感覚からすれば理解できないが、掴める願望が目の前に横たわっているのに手を出さない私達を逆に彼等は理解できない。しかし創造意志が働くのは欲あってのことだ。意志あるところに道ありの前に、創造意志あるところに先ず欲ありだ。将来的イメージ達成への願望が強ければ強いほど、夢は実現して実る。はっきりいって技術がどうだとか頭がどうだとかほぼほぼ関係ない。欲が強くて意志が明確であればそんなものは後から付いてくる。人間の本能に由来する性欲は、それが強いほど生きる力は強いしのし上がる力も強いと言われる。英雄と呼ばれる人物は必ずと言っていいほど下半身が盛んだ。統一信仰を持って戒めとして最も強く言われるのがアダムエバの問題だが、食口の多くは去勢された牛となって従うのみだが、自分を主体に立てる食口もいる。食口の中でも欲の強い者の行動には二通りあって、自分には合わないものとしてすんなり離教するか、逆に中心者として立って権力を欲望実現のために使うか、というこの二つの選択のどちらかを選ぶ。概して中心者、特に韓国の中心者は後者を選択したのであり、何をするにしても欲望を叶えることを考えている。それは願われた目標達成も褒美を自分に与える為に行動している。与えられた目標の公的題目と同時に私的願望も無ければ、どんな目標を立てるにしても絵に描いた餅でしかない。財欲や性欲を権力を用いて満たす者もいる。原理の教えによって抑え込んでいた欲望が、一端それなりの理由や言い訳を得ることで、抑え込んでいただけにその爆発力は何倍にもなる。はからずも彼等は神霊にしろ堕落天使長の霊にしろ自らの願いと駆け引きし、それ相応の創造意志を強くしながら発展させたはずだ。男は女を通して位相を高くし、女は男を通して位相を高くするのであり、そうしながら創造意志を強くするのは歴史を通して明らかであり、教会組織の発展もそれに違うことはない。アボジも女性を経ることで霊的位相を高くされてきた。一言付け足せば、統一信仰を備えてアボジを慕う女性は全てアボジの女であり、祝福は形の上ではアボジの女を天使長の位置にある男たちに下賜された立場だ。相対との性的な深みがあって霊的感性は広がりを見せる。すなわち性を通して心情は深く厚くなる。
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