統一食口が霊界に行くと、同じ霊界位相である食口達が一同に集まって暮らす統一村があるらしい。そして次の話が何とも私達の心の陰りを一層暗くする話なのだが、それぞれが犯した罪をプラカードのように首から下げて会う食口、会う食口全てがそれを目にし、生前の行いや罪状を把握できるとしている。それが天国か地獄かと言うと誰一人それは素晴らしい天国生活だとは言わないだろう。そんな地上的イメージを描いている時点でそれは霊界とは何ら関係のない、敢えて言えば霊的位相の低い私達に恐れを抱かせて、すなわちサタンの知恵を借りて手名付けようとする悪度さが見える。そんな説明で頷くほどに霊的感性の低い時期もあったということだろう。人間は肉身と霊人体とで人間であって、肉身だけの人間などいない。地上生活は肉身だけの生活で肉身を脱いで初めて霊人体が用意される、と言うことではない。地上生活しながら霊人体の成長も為して霊的生活も同時的にしている。というか霊は時空を超えているので同時的という言い方はおかしいが、人間は地上と霊界の両方に跨っている。肉身があり霊人体があり、そして肉身と霊人体を繋ぐ魂がある。そうなると三つの在り様があるとなってしまうが、魂は肉身と霊人体の一つになった在り様と言ってもいいかもしれない。はっきりいって食口には恨みがある。教条的縛りによって抑えられた自我を強いられたことへの恨みだ。それは本人にしてみれば無意識の底に我知らず封をしたままで見ずにいるが、それは人生を通して自由なる精神を奪われているという恨みだ。時としてその恨みの断片が表面に覗こうとすると、その都度浮かぶ思いがある。どうしてみ言葉を聞いてしまったんだろうという恨み言だ。霊界に行って、自分の行くところが天国かどうかはわからないが、その恨みが大方の食口にあって、解放されない世界が自分の内面の表れとして霊界の環境に現れるはずだ。自由精神を育んできた人間であれば、もっと主体的でありもっと能動的で肯定的だ。霊界を知らされながら霊的感性も本当の霊的価値もものにしていないという、この皮肉の悲しさが常に教会に漂っている。常に自分を縛ることに汲々としてきたから、罪を掲げて枷を自らに嵌めて暮らすという霊界の生活は以外と的を射ているのかも知れない。そんな食口達は今こそ一点突破であり全面展開だ。性には内面を開放させる神霊の作用が認められる。解放されればこそ受容の胸襟も大きく開いて邪悪な霊的要素も簡単に受容してしまうということもあるのだが、そこは縛りが正しく働いて相対以外の相手を持つことはないだろうから、相対間でこの創造の秘儀をしっかり研究すればいい。先ずは見つめ合うことからだろうか。海外で生活すればわかることだが、日本人は他と比べて目を見て会話することや見つめ合うことが本当に少ない。授受作用は先ずそこからだ。
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