2007年7月11日水曜日
頭を垂れる
食口は食口で、天の御心として自分は成長すべきだという意識が低かった。かたや責任者は責任者で食口を成長させようという意識も低かった。アベルであれカインであれ摂理摂理で自分の成長や兄弟の教育というのは二の次となり、そういった事を口にすること自体不信仰という空気があった。教育にはそれなりに暇も金もかかる。我々が成長しない限り摂理の進展もありえないとうすうす感じながらも、次々に来るノルマに翻弄されて今に至った。結果として、歳だけ取って役に立たない人材となる。外の空気に晒されれば自分はやっていけないと本人が一番解かっている。だから見っとも無い位しがみつく。曖昧にしていた信仰姿勢が感情となって噴出してくる。もはや外的な物の見方だけが心を占領し、自分は貧乏くじをひいたと腐る。内的な事や他に対する心の余裕はひとつも無い。外の厳しさに比べ中にいればその精神的苦労を舐めなくてよかった。完全な甘え人間に成り下がる。はっきり言うと個人も組織も一度清算しケジメをつけないと甘えの体質はいつまでも続く。本来体を使って一生懸命働くのは若いうちで、その間に籍を置く業種で知恵や勘、知識や感性というソフト面の価値財産を築く。その価値財産を使って将来的に体を使う以上の働きをなしていく、、、、というのが世の習いだと思う。しかし我々に於いてはただ体を動かしていただけで意識が働いておらず、ソフト面の価値が殆ど築かれていない。体が動かなくなったらそれで終わりだという思いがある。それを危機感として認識し意識を持たないとという想いに動かされればいいのだが、悲しいかな動こうとしない。何とかなると思っている。決して何とかならないのに、、、、。気付いたときには遅すぎたと言う想いもあるかも知れない。そして60に近い息切れのする兄弟を集めてああしろこうしろとオーダーを出す責任者の立場もまた、悲しい。この状況をどう天に申し訳すればいいのだろう。この状況から飛躍できるとしたら本当の奇跡だ。
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