2007年7月23日月曜日

杜若

数年前、業者から貰ったカレンダーの写真の中に、朝もやに浮かぶ青紫の花々の幻想的な風景が載っていた。どこかで見たような気がしてその写真の下に目をやると八幡湿原と記されている。見たことがあるも何も自分の故郷だ。霊界を映し出したようなその風景は、懐かしく見るというより何処となく暗さを思い起こさせる。日本の多くの田舎がそうであったように我が故郷も、都会から置き去りにされた孤独があってそういう気持ちにさせられるのかもしれない。しかし明らかに、そこに住む誰もが何か重いものを背負わされて暮らしていた。改めて故郷を思い起こすとそこは自然の営みの大きな流れの中で人間の無力さしか見出せない諦めと言ったらいいのか、その感情が村全体を占めていた。今と比べるわけにはいかないが、その当時でも住民は少ないのにそれでも自殺者は多かった。前の悲しい話が皆の間から消えぬうちに次の事が起こる。繊細な自分も子供の頃自分に纏わり付く亡霊を感じていた。目には見えずともいくつものそれがサクサクと音さえも聞こえるほどに魂を食むさまを感じていた。生きることの不安と虚しさが魂をすっぽりと覆ってしまう。だから自分を無いものにしようとしたそのやり切れぬ想いは、私なりに解かる。田舎の人は純粋そのものだ。そうであれば余計に悪魔の餌食となっていく。本来神が取るべきその魂を悪魔が掻っ攫っていく。霧の多い田舎では青紫のカキツバタの花弁の垂れ下がる様に亡霊を見る思いがしたが、晴れ渡った日のそれは純粋という花が咲いたような魂の高貴な姿を見る。祝福を受けた多くの善霊や先祖がその群生するカキツバタに喜びを表している。

0 件のコメント: