2007年7月22日日曜日

使命完遂

生命を賭けて事に臨むという時にこそ本質の中に生きようとしている。生命を賭けると言う状況はそう日常的に起こるものではない。おそらく一生を通して一度あるかないかかも知れない。しかしその一度あるかないかの状況で本質的に生きれるか死ねるかの行動は、日々の生活を通して自分自身をどこまで純化できたかに依る。自分という宇宙の中に巣食う忌まわしい邪悪にどれだけ挑戦してきたかに依る。御父様は誰もが心の中で神と悪魔が戦っていると話される。自分の中に神と悪魔が同居しているのさえ解からないという状況は、私が心霊的な歩みの段階にすら届いていないということだ。飲み食い娶り、と言う自分中心の歩みの域から出ていない。どれ程神の名を唱えようが祈りの言葉を口にしようが、それは自分は信仰者だというただの自己満足だ。物が溢れるこのアメリカで消費し続けることに毒された体質で、どう自分を純化できるというのだろう。破裂するほどの腹を抱え、五感の心地よさだけを追い求め、その正体は生臭い慾の塊でありながらそれらを包み隠すことの才能は見事だ。しかしその太った蛇の正体が暴かれるときが直ぐ目の前に来ている。蛇にとっては裁きであるけれど、良心を心の奥深くにでも認めたものは恵みである。アメリカという国家の生誕にはキリスト精神が大きく関わっている。物が溢れるにしたがってルーシェル的な意識が勢力を増してきたが、キリスト精神の火種は消えはていない。その火種から炎を燃え上がらせ、アメリカとしての国家の使命、アメリカ市民としての使命を完遂するときがもうそこに来ているはずだ。生命を賭けて臨む愛の本質の中に入ろうとしている。そのお役目の旗持ちでもありそしてシンガリでもある聖軍としての平和軍だと、そういう意識を持ってその時に臨むべく、準備に余念が無い。

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