2014年11月13日木曜日

今日の想い 809

稚拙な霊的認識が曖昧で観念的な信仰生活に留まらせ、実質的信仰生活とはならない。神様神様と唱えるが、見えない神様、五官で感じ取れない神様を、ただ唱えていれば実感できる訳ではない。こんな物言いをすれば分かり切った事をと反感を覚えるだろうけれども、反感を覚えながらも実のところ唱えるばかりで、信仰生活は観念的なままだ。原理を受け入れた者が先ず陥る落とし穴は、それまで存在するか否かわからなかった神様、さらには存在するはずもないと思っていたサタンを、原理を受け入れたことで急に現れて話しかけるが如くに認識したつもりになってしまうことだ。頭で理解することと実感的に認識することとは別物であるにも係わらず、頭で理解したこと即実感的認識だという思い込みに陥ってしまう。もちろん人間は神とサタンの中間的位置にある訳だけれども、しかし人間のすぐ上に神様がおり、人間のすぐ下にサタンがいる訳ではないし、ましてや知ると同時に認識出来る訳でもない。神様の認識に至るにも段階があり、サタンの認識に至るにも段階がある。それも一段二段どころの段階ではない。原理を受け入れて先ず出発すべき認識への道は神様とサタンの認識ではなく、神様への道半ばの善神の業、サタンへの道半ばの悪神の業、としての善神であり悪神だ。生活を通しながら善神を見出していくべきであり悪神を見出していくべきだ。どこに神様が働いているかではなくどこに善神の業が働いているか、どういう形で働いているかを問う必要がある。伝道で一人の人をみ言葉に導いて、神様の導きがあったと言えるのは、原因的には神様の導きあってのことだとは言えるとしても、神様の導きと結果の間には何段階もの霊的役事を経ている。にも拘らずみ旨の願いと同じ方向であったとしても、良いことが起これば神様、悪いことが起こればサタンと単純に決め付けてしまうことで中途の霊的役事を無視してしまうことになる。そういう極論的な認識指向は信仰生活を観念的に留まらせるし、信仰生活の為の霊的筋肉が弱いままで、悪いことが続け様に起こってしまうと途端に信仰を失ってしまう。起こる事柄の中には善の要素もあり悪の要素もある。だから実質的信仰を備える為には、自分を中心として起こる周囲の全ての要件のその背後の意味を問うという、内的霊的作業が必要になる。そこには同じ要件であっても私の態度によって善神の働きを見たり悪神の働きを見たりする。しかし善神の働きを見ながらも驕りや甘えを付着させてしまい、その背後に隠れている悪神が顔を見せて引き摺り下ろそうとする。そのように背後は実に複雑で、そういった霊的存在達に翻弄されない為には信仰のイロハとして先ず謙虚さという霊的筋肉を培う必要がある。今まで神のみ旨だと言いながら歩んできたけれども、いつ如何なる時も善神が働いていたと断言できるだろうか。私達の思い込みで突っ走った為に導かれるはずの人々の御父母様への因縁を断ちきってしまったことがなかっただろうか。み旨だと信じて歩んだ中にサタンが背後から操られていた部分が全くなかっただろうか。霊界に通じれば思いもよらぬ霊達の讒訴に驚かされることだろう。謙虚さは歩みと共に付着していく悪の要素をゼロ点に戻して再出発する霊的筋肉だ。再出発だけれども一からのやり直しではなく、ゼロ点であるけれども次なる次元へのエレベーターが用意されていて、結局は神様に近づくべく聖霊や神霊に出会える次元上昇への近道だ。

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