2014年11月15日土曜日

今日の想い 811

信仰生活はそれ自体が目的ではなく、あくまで実績を出す為の動機を備える為に必要なものだ、とある。だから実績を残さなければ信仰生活をしている意味はなくなる。もちろん実績は外的なものだけでなく、内的実績もあることは認識しておかなければならないが、内的実績は時間を経て外的に現れる。信じることが事実上目的になってしまっているから、信仰生活が観念的なままでも不自由しないし、実質的信仰には至らない。本当に実績を持とうとすれば実質的信仰にならざるを得ない。信じれば天国に行けるのかというと信じるだけでは天国には行けない。イエス様も天国は信じるところにあるのではなく私にあると言っている。それは主体的内容を自分で決めなければならないということだ。天国は誰かに連れて行ってもらうのではなく自分が決めるということだ。信じると言う場合は私に無い他の何かを信じるのであるし、そうではなく私の中にあって私と一体であれば信じるという意志も必要なく、信じる前に既に私と共にある。私自身でもある。観念的信仰は内的なものの写し鏡である現実に対して表象する力とはならずこの世的現実に飲まれたままだが、実質的信仰に至れば現実にも実績として現れて当然だ。御父様は「信仰の中心に対してはっきりとした信念を持つように」と言われている。この言われた意味がよくわからないままで次なるみ言葉に簡単に進んで素通りしてしまうから、依然として信仰は観念的なままだ。しかしこの言葉に実質的信仰とは何かが言い含められている。信仰とは言葉の通り信じて仰ぎ見ることだが、仰ぎ見る対象を常に大上段に最高位の神様であり御父様だと捉えても、底辺である堕落圏の現実生活に私が存在する以上、最高位の神様は実感できず神様とおぼしき観念に留まってしまう。観念的な実質のない信仰から実質的信仰になるためには、信仰の中心に信念を持つ必要がある。人間も中心である核に霊の柱が立たないと、霊のない人間、霊人体の完成のない人間であり、肉体を脱いだ時霊界の存在にはなれない。そういうふうに人間に霊の柱が立たなければならないように、信仰にも中心に信念を核として持たなければならない。御父様は獄中伝道でみ言葉を語って伝道されたのではなく、伝道への信念を持たれたから人々が御父様の元へ集ってきた。私達は伝道もしなければならない、氏族も復帰しなければならない、献金もしなければならない、その前に先ず生きて生活しなければならない等と、あれもこれもと思っているが、欲を持ってもあれもこれもできる訳がない。この世の者達が生きるので精一杯であると同じように、私達も生きるので精一杯だ。為さなければならないどれ一つをとっても、信仰が必要であり信仰の中心、信念が必要だ。伝道するなら伝道の信念、ある道で成功者になるにはその道の信念、信念の持てない目標を持っても為せるか為せないかは誰も知らないし神様ですら知らないが、自分自身がもっともよくわかっている。「山の頂上に上がることを願うならば、夜も昼も行かなければならない。そして心の世界で千回万回行って見て正しい道だと感じたとき始めて行動できる」と例を示して教えておられるが、正しい道だと感じる、という信念はそうやって持つものだ。そうなると信念とは登っては降り、登っては降りしながら持つものなので中途でどうだろうと感じたら麓まで、すなわちゼロ地点まで戻る必要がある。今までの歩みでどれほど腰折れしてきたことだろう。腰折れしたのは信念がないにもかかわらず、言われたからやるという観念的信仰にとどまったままで形だけやっている風で取り繕った結果だ。さらに腰折れした結果を放ったままで別の山を目論むが、信念がなければどれほど山々を渡り歩こうが結果は同じことだ。信念を得るまでの霊的内的筋力が不足している。

0 件のコメント: