2014年11月8日土曜日
今日の想い 807
公金なのか私的なお金なのかの判断はその所有権がどこに属するかという問題ではある。しかし利益などの有形無形の結果ばかりを見ているが、その所有権がどこに属するかは結果を創造する過程に於ける投入を誰が為して来たのか、すなわち経営権の問題なくしては所有権だけの論議や判断で見えて来るものではない。意外と私達は結果ばかりを注視して公的なもの私的なものと割り振りしているが、公私の区別はそんな単純なものではない。ある会社のオーナー(経営権の保持者)が会社のお金を流用して豪奢な家を買ったとしても、それは横領とは言わない。配当(公から私へ)の手続きを無視して使ったという税の問題であり帳簿の問題だ。経営権を持った者の経営のルールの問題だ。このオーナーは社会的に見て誰も公金横領だとは言わない。そのように所有権を主張する以前に所有をもたらした経営権を無視し、単純に所有だけを見て公私を決めることはできない。結果的全てに公私の区別の色付けが既にされていると思っているから、結果を排出する為の投入、経営の苦労や痛みなどはなから経験しようとはしなくなる。戴いて手にするものだけを如何に使うかだけが意識にあって、もらうのではなく自分で創りだそうとはしなくなる。信仰はあるけれども生活観念は共産主義的だ。形だけ経営に携わっても能動的にはなれないために失敗するはめになる。今までの教会が携わってきたビジネスの累々たる失敗の軌跡を見れば推して知るべしだ。食口が社会的実力を持てないのは公的私的の間違った観念があって、それが常に受動的生活姿勢を取るようになり、貰う者から差し出せる者という能動的な位置に立てなくなっている。所有権しか意識にないから経営権に思いは至らない。公金に対する観念を清平にも当て嵌めている。集まったお金について私的流用だどうだと口にする時点で清平をビジネスの土俵に引き摺り下ろしている。清平はビジネスではないにも拘わらずビジネスの土俵で訴えている。また清平の解怨料は教会への献金とも異なっていて、料金を払ったのに解怨されていないという訴えは出来るとしても、運営以外に使っていると訴えることはできない。私のことを言うなら、解怨して戴いたと信じているしそれによって体も癒して戴いたから感謝こそすれ流用に対して疑問を抱く余地などないし、どう使って戴いても何の懸念も挟まない。ワールドセンターの建設も天正宮の建設も私達の献金で造られたのではなく、大母様訓母様の献金で造られた。だから御父母様は訓母様を称えられた。
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