2014年11月17日月曜日

今日の想い 813

魚は水がなければ死んでしまう。しかし水にも淡水もあれば海水もあり、清い水もあれば濁った水もある。魚も種族によって水を選び、種族が生き延びることができる水の場所を棲家にしている。人間の肉体も空気がなくなれば途端に死んでしまう。一方で霊的存在としての人間は、様々な霊的環境の中を棲家としている。淡水的な霊的環境もあればより海水的な霊的環境もあり、清い霊的環境もあれば濁った霊的環境もある。天から落とされた一滴の水は、支流から段々と集約されながら本流に合流して行き、やがて汽水域を通過して海水に合流する。私という一滴の霊は、家庭環境からその範囲を次第に広げながら経験して成長していくけれども、最終的には死の前後という天宙的汽水域を通過して霊界という大海原に帰っていく。霊的環境としては無神論という神はいないという信仰も含めて、どういう信仰を持つかが自分の霊的環境を大きく決めている。様々な国があり宗教宗派があり、さらに個人それぞれで信念も異なっていて、地上生という淡水的霊的環境ではあるけれどもしかし異なる環境にある。結局は霊界という大海原に突入しなければ自分の信念信仰が受け入れられるものなのかどうかはわからないと思っているし、だから不安でもあるけれども、内面に霊的羅針盤である良心を誰も持っており、磨いて機能させることで霊的に生きる存在になり信仰の中心に信念を持つ。統一食口は統一食口で同じ霊的環境圏に住んではいたが、地獄の壁が撤廃されあらゆる霊的壁も撤廃されたが為に、その環境圏に固執することはできなくなった。それは摂理的でもあって、より開放的でありいろんな他の霊的環境を刺激できる新たな霊的環境圏を用意しなければならないということだ。要するに後天時代に相応しい新しい革袋を用意する必要がある。教会に対して批判態度を取る者達は、追われた環境圏への執着と追われたことへの恨みから、しかしそれでも何らかの形で教会因縁を結ばなければ存在を否定される為に批判に向かってしまう。ひたすら批判できる餌を目を皿のようにして探し回っている。しかしこちらが対応しなければ餌が餌にならないし、教会側がもし他の食口への影響を心配してのことなら、批判に晒され批難を受けることで内的霊的な成長が促されるのであって、変に手をかける必要は無い。泥沼の中から純白の蓮の花は咲くのであり、この混沌の中から真の祝福家庭、真の統一食口となるべくサナギを脱いでいく。魚の話に戻るなら汽水域を越えて自由に淡水海水を行き来する鮭になる。

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