2014年11月20日木曜日
今日の想い 814 (御母様編纂による天聖経)
み言葉がどれほど難しいかは、読み進めれば読み進めるほど迷宮に迷い込むが如くだ。御父様は八大教本教材として残して下さったけれども、全てを読破するのさえも難しく、さらにみ言葉の本質を受け取るとなると至難の業だと言える。私達の認識として、み言葉の全体全ては未だ知らないとしても、骨格である原理を中心として或る程度の肉付けは出来ているのではないかと思っているけれども、果たしてそうだろうか。何年も何年もみ言葉を読み進め、積み上げて構築したみ言葉の全体だと思えるものが、押し付けられた現実に晒されることで私の内面に構築したそれが崩れ去る、という事態を私は経験している。肉付けされながら理想イメージとして捉えていたものが容赦なく崩れ去っていく。二世に対するイメージもそうだろう。教会の未来的なイメージもそうだろう。さらに御家庭に対するイメージすらも崩れて行く。もちろん自分自身の、歩めども歩めども発展的なものを見出せない実情もそうだろう。私がみ言葉の本質を受け取れずに、しかしみ言葉を捨てることもできず、一体となれないみ言葉と私の現実というこの狭間で、妥協的暫定的な中間域で踏み止まっているのが私達の霊的実状ではないだろうか。み言葉はいつのまにか既存の内的生活を支える補助的なものとなり、み言葉で産み変えられた新しい私が先ずあって、そこから繰り広げられる新たな内的生活とはなっていない。生活があってみ言葉で支えるのではなく、み言葉があってそれによって新しい生活を構築していくはずだ。ある食口が、聖霊のみ言葉が現れるという啓示を受けて、受けた本人がそれが自分だと思い込まされたか思い込んだか、そんな分派があるが、聖霊のみ言葉が現れるという啓示自体は意外と本質を突いていると私には思われた。そしてそれはその分派が言い張るところのものではなく、御母様によって編纂された天聖経に違いないと瞬時に思わされた。心霊が未だ暗く、み言葉を論理的頭でのみ理解しようとする私達は、み言葉をどれほど箇条書き的に積み重ねても限界があって本質を受け取れず、よって観念的にならざるを得ない。しかし御母様が編纂して下さった天聖経は、私達がみ言葉の本質を受け取り易いように実に整理されていて、み言葉全体を私の中に構築できる。箇条書き的であったみ言葉が有機的連携を為して生きて働く。未だ私が主管する訓読は未熟である為に、その確信を持って呈示するには至らないけれども、しかしその予感は外れてはいないはずだ。黒表紙が夜の神様のみ言葉、赤表紙が昼の神様のみ言葉、こう表現するとまた遣り込められるだろうか。
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