2014年11月25日火曜日

今日の想い 816

御父様が聖和された外的経緯であれば食口の誰もが知っているだろう。しかしそれはあくまで外的経緯であって、御父様がどのような内的な心的経緯、さらに霊的経緯を辿られたかはそれぞれが祈り尋ねなければ見えてくるものではない。外的経緯を自分に当て嵌めることで、苦しかっただろう、寂しかっただろう、口惜しかっただろうとその感情を思い起こしはするが、それがそのまま御父様の内的経緯であるはずがない。その想像に悪意はないとしても悪意なきこじ付けの可能性は十分あり得る。御聖和に対する自分勝手な思い込みを大上段に構えて、御聖和の経緯に関わった人々を指弾し切ろうとするのは最も避けるべきことだろう。イエス様を槍で突き刺したローマ兵士でさえその責めを受けなかったのは、聖徒達が己の罪故に犠牲になられたことを知っているからだ。距離を置いた位置からは誰にでもどうにでも罪を押し付け、囃し立てることはできるが、果たしてそれが救って戴いた御父様を想う態度と言えるだろうか。もちろん人それぞれにそれぞれの感情があり、愛する御父様に対するそれぞれの感情を否定するものではないとしても、しかしそれは自分の中に留めるべきであって、誰もが全く同じ感情を持っているはずだ、あるいは持つべきだと思うのは違っている。イエス様が磔刑を受け入れることを決意された時どのような内的経緯を辿られたかは、イエス様のみ旨を受け継がれた御父様によって2000年を経て初めて示されたのであり、イエス様の犠牲は自分の罪故であることを知り、犠牲を決意した弟子でさえ、イエス様の心の内の本質的な経緯を知ることは無かった。ましてや決意と覚悟の足りない私達のどれだけが御父様の御聖和への決意と覚悟を知り得ているだろうか。悲しい申し訳ないという感情は感情で否定されるものではないにしても、その感情が恰も全てであるように取り扱うべきではないだろう。御父様は逝かれるその時をこの世の事情に任せざるを得なかったのだろうか。結局は御父様ですら肉体の事情はどうすることもできなかったのだろうか。天宙の勝利権を立てられ、天宙を主管される御父様も、死を主管されることはなかったのだろうか。しかし私にはその経緯を御父様は敢えて選ばれたとしか思えない。イエス様は人の手によって地上生を終えられた。御父様は病によって地上生を終えられた。イエス様は逃げれば逃げることもできたはずだが、敢えて盃を飲む決意をされた。では御父様も同じように、病から逃れようと思えば逃れることもできたとは言えないだろうか。しかし敢えて進み出て病に身を差し出されることで、肉体の犠牲を供えられた。地上的外的なことを中心として把握する者にとっては、病は誰であっても病であり、それは御父様とて変わりなくやはり病だと思っているが、蕩減的に病を受けて病に侵された者と、病を訪ねて能動的に病に足を踏み入れた者では、病の意味が全く異なってくる。御父様はイエス様が奇跡に頼ったことに対して言及しておられる。御自身は奇跡に頼らないことも言及しておられる。そうなると御父様は敢えて病に身を差し出されたとしか言えなくなる。祝福家庭が世界的祭物であるということと、食口達の癌の羅患率は非常に高いということとは関係性があるはずだ。そして発症を起こさせる見えない肉体の世界、ミクロの世界と肉体創造の根源となる原初世界とは繋がりがある。御父様が南米の奥地に行かれて精誠を供えられたのは根源世界、原初世界を復帰し主管される為であったが、人間界の平和は既に道筋は立っているけれども、万物界を根源から愛で主管する道筋を見出せない限り、病は神様の創造理想を阻むものとなってしまうだろう。よってイエス様は肉体を人間に差し出されたけれども、御父様は肉体を万物の根源存在に差し出された、という言い方はできるだろうか。残る細胞の一つまでも為に生きる生を差し出された壮絶な最期であられたという感慨は、後に病が解決されるときの未来の私達の感情となるはずだ。

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