2014年11月16日日曜日

今日の想い 812

天聖経の赤表紙がどうの黒表紙の書き換えだのとうるさいが、吠えて噛みつくほどみ言葉に精通している訳ではないだろう。み言葉の一部分の言及を取り上げて、おかしいだとか改竄だとか審判を下しているが、様々な摂理を経てきて、その摂理摂理で中心的み言葉を語られたのであり、どんなみ言葉もその背景を考慮に入れなければ、言葉尻だけ取ることでいくらでもこじつける材料になってしまう。御父母様の心情圏に入らずともその心情に少しでも触れた者であれば改竄などという物言いなど出来るはずがないし、大体そんな指弾追求をすることで御父母様一体圏を蔑ろにはできても、一体であられる御父母様を仰ぎ見ることには到底ならない。おそらく御父様と御母様は一体圏にはないと思っているのでなければ、あからさまな批難の言葉を口にし、記すことなど到底できないはずだがどうだろう。彼らの批難は、多くの批難がそうであるように、御母様への不信から、もしその言葉に引っかかるのであれば御母様がいいように利用されている(それも含めて不信だと私は思うのだが、、)という思い込みから来ている。信仰を超えて御父母様を慕い侍る食口であれば、そんな早急な思い込みも決め付けもせず、先ず自分が理解していない部分があるはずだという謙虚な位置で、問い尋ねてみる祈りから出発するはずだ。み言葉改竄をどうのこうの言うのであれば、新しく編纂された天聖経を訓読することで重大な内的霊的混乱が生じたという者が本当にいるのであれば御母様の前に進み出て申し出ればいい。八大教材教本どころか、天聖経もまともに読破もしていない者が、改竄呼ばわりする神経が私にはわからない。み言葉の本質を受け取らずに鞘だけを受け取って霊的なことが何一つわかっていないという山羊族は、日本に住もうが韓国やアメリカに住もうが変わらず山羊族だ。羊が自己中心的に山に登って山羊になったが、偉そうに高みから見下ろす物言いは山羊そのものだ。膨大な御父様のみ言葉を訓読するには時間もないし理解度も欠ける私達を思われて、編纂して下さったのは御母様の食口を思う愛以外のなにものでもない。霊的無知である私達を不憫に思われて、訓読し理解しやすいように編纂して下さった。感謝こそすれ、自らの霊的位相も顧みない者達の物言いに対しては無視するのが一番いい。食物を噛み砕いて口に運んでやる親のように、敢えてそんな甘えを助長させるように、編纂された天聖経を説明してやる必要など全くない。かまえばかまうほど噛みついてくるのはわかりきっている。

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