2018年7月31日火曜日

今日の想い 988

トランプのアメリカファーストは彼の主義としては一貫している。思い付きのように思える政策も、感情に左右されたような言い分も、アメリカ第一主義の枠からはみ出ることはない。日本は今まで日米安保条約にすがりついてきたから、コバンザメのように常にアメリカ追随で今日まで来た。これからも同じように日米関係は続いていくと思いたいのは理解できるが、しかし世界の、特に東アジアの状況からみれば、アメリカにおんぶにだっこの日本のままでは近いうちに冷水を浴びせられることになるだろう。トランプは自分が既存のポリティシャンのようにはなれないこともわかっているし、彼自身そうなりたくもないはずだ。トランプは自分の遣り方でプレジデントを全うしようと思っている。ビジネスディールと同じ方法で対外外交も切り開いていく。このビジネス感覚で全て引っ張っていけると思っているかどうかはわからないが、ビジネスで培った直感は一番大切にしていて、一日に連絡を取りまくりながら膨大な情報と意見は取りあえず受け取るが、信じるところは自分の直感しかないと思っている。混乱した世界情勢も、くるくる変わる複雑な経済状況も、頑なに何々主義を持ち出したり立てたりしても何の役にも立たないことを直感でわかっている。そこまで私が言えるのは、私自身が募るところ直感しかないと思ってきたし、判断を迫られたとき直感を大切にしてきた。同じ匂いがしてどう進めていくかだいたい予想が立つ。更に言うと直感を判断に持ち込むのは基本誰も信じていない、というところもあって、それも私自身がそうだと思うからだ。そして直感人間は感情人間にもなりやすい。感情をどれだけ制御し主管できるかが、直感を研ぎ澄まして判断を誤らないトランプ政権の舵取りとなる。そんな直感トランプ政権に対処できるとすれば、これもまた安倍首相の直感以外ないだろう。モリ加計で感情をかき回すだけの愚かな議会やメディアは、害にこそなれ日本のかじ取りの何の役にも立たない。

今日の想い 987

サンクチュアリのヨナ二ムの話を聞いたことがある者はわかるだろうが、実に話に筋が通っている。信仰的でもあるし勿論謙虚でもあられる。耳にも絵的にも癒されるし、正直なところ私の魂は心地よさを覚えてしまう。単純な感情に従えば、この御方こそ聖霊が共にあるのではとさえ思えてくる。そうして当然のように御母様と比較する私がいる。彼女の優しさが伝われば伝わるほどに、御母様の優しさはどこに行ったのだろうか、どうして封印されたのだろうか、との想いが胸に降り積もる。あれだけ子女として御母様を愛する決意を差し出したにもかかわらず、未だに愛されたい、優しくされたいという想いが時として堰を切る。以前記したように、鬼になられようが蛇だろうが御母様は私の御母様だという認識には何の変りもないが、ひたすら愛を見出そうとするこの想いに応えられる御母様はもうこれから諦めなければならないのかと思うと、寂しくもあって言葉がなくなる。食口がこの心情を通過することを知っておられるのであり、それでも敢えてそのような態度で接しておられ、後に氷が解けるように腑に落ちるときが必ずくるはずだと信じて今日も息を繋いでいる。この減少感を超えて御父母様を愛する私になるべきだ。一片丹心の心情は今の私がもっとも復帰しなければならない心情だ。地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである、とある聖句が私の中で鳴り響いている。

今日の想い 986

人間は慣れてしまう存在だということを認識しなければならない。とりわけ食口にとっては慣れるということ、慣らされているということがどういう状態にあるのかを意識してほしい。当然のこととして行動している一つ一つを、それがどういう意味を持っているのかを立ち止まって再考してほしい。今は一線を退いたが、摂理に携わった殆んどの期間をビジネス畑に身を置いて歩んできた。ビジネス分野で自分の技術や能力を高めて今に至ると、当然のように想像するかもしれないが、実際はほぼ飼い慣らし状態、要するに人間の形をして人間の言葉を喋る家畜状態であったことを認めなくてはならない。そうかと言って今までの歩みが無駄だったと言うつもりもないし、常にみ言葉を中心として歩んできたことは正しく、それ故に護られもし引き上げられもしたし、これからもそうあることを望んでいる。しかしそこに留まるべきではないし、今こそ変革を願われている。教会体質は共産主義体質だと今まで憚ることなく言ってきたが、その体質が癌だというより、その体質に慣れてしまうこと、慣らされることが問題だ。できるだけ利益幅を出す為に皆同じ低い手取りにする。頑張っても頑張らなくても変わらない給料となる。これだけ収益を上げたのだからとアップを要求する、というのは全体を考えない自己中心的だという意識が働く。しかし変わらない低い給料に慣れることで、技術や能力も今までのままに慣れてしまい、キャリアの向上という意識は働かなくなる。摂理の為、天の願いだと言葉だけは空しく響くが内的にも外的にも内容が全くついてこない。そして今の惨憺たる状態になっている。私達の中から共産主義体質を取り除かなければならない。共産主義を否定しながら私達の体質に共産主義が潜入している。二世や三世に引き継ぐのは一世の体質ではなく、慣らされてしまって中心への意見もない魂でもなく、為に生きる犠牲精神すなわち心情だ。自分のそれがどれほど小さいものであってもそれしかない。その欠片さえも自分の中に見出せるだろうか。

2018年7月21日土曜日

今日の想い 985(万物主管)

三大祝福のひとつである万物主管は、私達の簡単な理解としてこの世を治めることと捉えている。しかし治めるとはどういうことだろう。真の父母を中心とした教会社会の在り様の世界的拡大版を意味しているのだろうか。そのあたりが随分曖昧で、3年で地上天国はできると信じていた当時のイメージから、今も同じで変わった様子は見受けられない。かつて御父様は韓国の政治を治めようとされ何人かを立てて選挙に打って出られたことがあった。惨敗だった。政治に進出しない限り国を動かすことはできない。もちろん議員の中には賛同的な人もいることは知っているが、それがピンキリのどの辺りなのか。どちらにしろ賛同的議員にお伺いを立てながらでしか政治に関与できないとすれば、政治を治めることなどできない。それぞれの国益という国家的価値観を把握した者が政治を治めるべきであって、それも追求せずに下心だけで当選するなど国を司る霊的柱が許さないだろう。御父様の想いがどうだったのかは別として、選挙に立った者達の中で国家的価値観を把握していた者はいなかったはずだ。要するに彼等は国を愛することに於いて負けたことを結果として見ている。ビジネスで成功する者達の多くは商品に対する価値観、従業員に対する価値観、そして金銭に対する価値観をその途上で学び把握している。そしてその価値観は論理を超えて想いだ。私達は万物主管と口にはするけれども、金銭に対してどの程度の価値観を把握しているかは大きな疑問だ。一ドル稼ぐためにどれほどの精誠が必要か。流通しているお金の内的面の願いや祈りや恨み。お金に刻まれた皺や汚れの意味。汗と涙で受け取り払われれば汗と涙の想いは当然付着している。お金はより価値が分かって愛する者に必然として回ってくる。お金を我が子のように愛おしく思ったことがあるだろうか。1ドル札の皺を伸ばしながら想いが伝わり涙したことがあるだろうか。多くの食口は未だに万物の象徴でもあるお金の価値がわかっていない。信仰を持ちながら物をモノとして扱う唯物主義者だ。お金を愛せない者は万物主管がどうのこうのと言う資格などない。それと同じように親兄弟や氏族を愛せない者が氏族復帰を言う資格はない。さらに言えば、自分を愛せない者が個性完成するはずがない。

2018年7月18日水曜日

今日の想い 984

人間は霊化された植物だともいえる。四肢や細胞の隅々まで枝を広げる神経系の幹の力は、手足の指の先々から肌を突き破って更に大気や物事へと触手を伸ばしている。神経系の幹は脊髄で脳細胞へと人間の根を張り巡らせ、頭頂を突き破って天の彼方へと霊的養分摂取、すなわち生霊要素の為の根を深く伸ばしている。植物全般は地球という肉体に生命活動を与える生命体そのものであり、色とりどりの美しい花弁で光を誘い、大気に広げた生殖器で生命要素を受け取っている。人間の在り様を見れば植物とは逆であり、根を上に生殖器を下に配置され、ガイアの霊の部分である精神活動を担っていて、霊的光を発する発光体となり地球の霊化に勤しんでいる。人類が堕落してからの相当の間、霊的感性は封じ込められていて、本来の人間の在り様から万物以下の状態まで落ちてしまったが、霊的核である神様の精子を初めて受け取り、地球はガイアとしてその霊的生命を吹き返した。私は以前、球の周り一面を蠢く無数の小さな虫とも蛇とも言えないものが覆い尽くされ、それらが青色に輝いているガイアの姿の縮小を見せられたことがある。よって地球を霊的にみれば先天時代は死亡圏であり後天時代はガイアとしての生命圏だ。息を吹き返したガイアとなって、ともに生きる私達はガイアが更なる高次元存在となるべく働くことになる。御母様を受け入れた者であっても、なかなかしっくりこないのは目指しておられるところが見えない、イメージできないということなのだろうが、いまだに霊的無知から目覚められないからそうで、真の父母は生きた天の父母様として働いておられ、真の父母から分かれ出た私達祝福家庭それぞれは真の父母の中に生き、私の中に祝福家庭の中に真の父母が働いておられるという認識が先ずない。私という自我意識の外界には地上界を生きて主管する天の父母様の一細胞としての私を見出し、内界には霊界を生きて主管される天の父母様の一良心としての私を見出す。地上では曖昧模糊としているその理解を霊界の住人になれば明白に知るようになる。外的にも内的にも私は神様の一部分だ。私であって神様であり、神様であって私だ。生きて真の愛を求めれば霊的四肢を益々地上に、また人間社会に広げざるを得ないし、霊的根を益々天の心情の深みへと伸ばして繋げなければならない。そうしてそこに御父様と御母様、真の父母に霊的に会える。私の自我を中心として、一方で真の父母に会える私と一方で霊的覚醒と進化を見る私が出会える。

2018年7月17日火曜日

今日の想い 983

サンクチュアリに信心を預けた者達の試練は、御父様に御母様とは異なる別のオモニを挿げ替えたことだろう。彼等にとって挿げ替えは捧げ筒どころの騒ぎではない。御母様は本来歩まれるべき真の母としての歩みを逸脱している、ということには頷けるけれども、それを正そうとするのではなく別の御方を真の母の位置に挿げ替えるのはどうなんだろうという疑問だ。彼等は二代王への信仰をかけて正しい判断だと自分を納得させたのだろうけれども、そこには祝福の問題も確実に絡んでくる。御父様に決めていただいたのであり御母様は絵的に側におられただけだ、と思っていたのなら差ほど違和感は覚えないのかもしれないが、そんな単純な話ではない。御父様の側におられただけではなく御母様と共に内的霊的な基台を立ててこられたことを否定している。祝福を受けた者達は皇族圏に入るけれども、何に対しての皇族圏かというと王族に対する皇族であることは間違いなく、王族が立たなければ皇族も立たない。その意味ではサンクチュアリは、真の父母が父と母の一体圏であることからすれば、初代王としては真の父母の体を為しておらない失敗王であることを認めたことになる。よって彼等にしてみれば二代王ではなく初代王であり、相対である婦人こそが御母様であって、オモニの挿げ替えは体の良い御母様人形に過ぎない。御母様の否定は真の父母の否定であり、そこに祝福は成立しないし皇族圏にも入らない。彼らが受けた再祝福がどれほどの霊的混乱をもたらすか、霊的無知ここに至れりでその被害は彼等の枠を超えている。御父様が晩年私達に切実に指摘されたことがあって、それはあなた達は霊と魂を混同しているというものだ。思考も感情も意志も魂の領域であって霊界にそのままそれらを保持して持っては行けない。御父母様の勝利圏は魂の領域を超えたものであって、その基台の上での祝福を否定することの愚かさに彼等は気付いていない。しかし教会も教会で、同じように霊と魂を混同しているものだから、魂の思考による論理の場で相手もかかってくるし同じように論理で説得しようとしている。さらに感情の衝突もあって見るに堪えない。家庭連合になって看板にも掲げていた神霊は置き去りにされたのだろうか。

2018年7月16日月曜日

今日の想い 982

地上で愛が満ちれば霊界も満ち足りるのであり、御父様は真の愛に酔うという言い方をされたように、愛の濃さに人は酔う。私達の中にこの世で使う愛という概念を超える愛が存在するだろうか。そんな真の愛に生き、真の愛というエキスを霊界にもたらしているだろうか。四大心情圏の愛はイエス様が開かれもたらした犠牲の愛を超えている。イエス様が表されたように、犠牲の場でこそ愛がその姿を現すように、私達は親を否定する立場で親を真の愛で愛する子女の愛を立ててきたし、御父母様にしてみれば我が子を否定しながら親の愛を立ててこられた。一般の観念からすれば親を捨てた、子を捨てたと否定されるのを当然としながら、そのような立場で真の愛を開きもたらすという、地上の愛の論理では理解できない、逆説で立てる真の愛の道がある。御母様の歩みはアボジを否定し子女をも否定する孤独の路程を切り開きながら進んでおられる。その悲痛な叫びを食口のうちの誰が受け取ることができるだろうか。歯の浮くような賛美の言葉をかけたり、覚悟もない決意を声高に叫んだり、それはそれで幼子の愛し方かも知れないが、御母様を本当の意味で愛し孝情を立てる食口である為には、真の愛の道がどういうものかという最低限その理解に立つ必要がある。皆がそれぞれの理解で御母様を判断しているのだろうし、私ももちろん御母様に対するイメージがある。そしてそれは決して気持ちの安らぐようなものではない。しかし今の私の判断基準が決して正しいものではないことも良心に問えばわかってくる。今は私の論理に任せるでもなく感情に任せるでもない、僅かに輝きだした意志こそが足元を照らす。

今日の想い 981

朝目覚めると先ず深く一呼吸する。一呼吸しながら自我意識が死の淵から立ち上がってくる。ある時は強烈な個我意識となって、歯が欠けるほどに食いしばりながら目覚める。またある時は流れいるような意識で満ち溢れ、生命の活力のうちに目覚める。そしてまたある時は誰かや何かを思ったり患ったりする感情に弄ばれる意識で目覚めて、自分の肉体に暫く入れないこともある。意識できる地上界への目覚めの状態は、霊肉の境界線である渕の向こう側で何を与え何を得たかで決まってくる。肉体を戴き地上で生きることを許されているという事実は、淵を超えた向こう側に何を与えもたらすことができるのかを問われている。もちろん地上の物質を持ち運ぶことはできないし、そんなものを望まれてもいない。今日一日を五感で生きながら、内的に受け取ったものがあり与えたものがある。受け取ったものをそのまま持ち込んでも受け取ってもらえず、そのエキスである愛の本質(真の愛)こそ天使たちは待ち受けている。霊界の働き人である天使たちは真の愛で柱を立て梁を渡して家を築き、より高次の霊界への扉を築いている。天国の柱に触れれば柱の声がする。一つの精誠を地上で立てた犠牲の証を訴える。そのように霊界の全ては精誠で築かれている。日本人からすれば韓国人は道理も無視しハチャメチャに思えるかも知れないが、彼らの道徳性ではなく宗教性を日本人は学ぶべきだろう。異常な程に怒り、恨み、地を叩き体を叩きながら涙する、あの感情の中にこそ心情が息衝いている。よって平穏を装う日本人と比べれば遥かに、死の淵の深みを超えて霊界にもたらすものは多くなる。

2018年7月10日火曜日

今日の想い 980

オウムに関してはいろいろと検証されてきたけれども、多くの疑問を残している。執行されたことで唐突にメディアがこぞって取り上げ、口だけは達者な似非論者ばかりが顔をだして泡を飛ばしているが、本質には誰も迫ってはいない。しかし殆んどの取り上げ方として、新興宗教を悪者扱いすることを当然としていてバランスを欠いた論議になっている。この手の話になると我が教会は必ずと言っていいほど取り上げられるのだが、それは致し方のない部分もあるが、それにしても一方的な批判で括られてしまう。メディア自体がバランスを欠きがちなのは、一方でなければ一方という極と極の二者択一に因るもので、本当なら100%悪もなければ100%善もない。その中間をあるものは善より、あるものは悪よりで、悪だ善だと断定することは出来ない。更に言うなら善悪は結果論の言葉で、結果を待って初めて使える言葉だ。ではオウムはどうかというと、ある地点で引き返せないほどバランスを欠いてしまった。中心である麻原が宗教者としては超えてはいけない領域を犯してしまった。殺してしまうことで善に繋がる余地はなくなり、彼の秘儀は使い方を間違えた黒魔術となった。そして黒魔術にかかった信者はサタンの手足に成り悪鬼が悪鬼を呼び起こしていった。人間ほど恐ろしいものはない。同じ人間の輪郭の中に一瞬で悪鬼を住まわせてしまう。そして彼らを結果的に調子に乗せたのはメディアだった。メディアが面白がって出演させ、放言するにまかせたものだから、日本国中に知れ渡るその知名度に酔いしれそれが殺人への罪悪感を消している、と共により大きな殺戮へと駆り立てている。オウムがテロ集団になってしまった背景にメディアの大きな関わりを見るのでなければ、この悪魔の正体は暴けないだろう。教会と同じように科学と宗教の統一を謳い、生死の意味を差し出そうとした小さな一宗教団体の群れが、恐怖のテロ集団に変貌する。

2018年7月8日日曜日

今日の想い 979

米本氏のブログに価値観の強要云々という指摘があった。残念ながらその指摘は適格で的を得ている。この指摘に対して食口がどう思うかというと、どうも思わない。思考としての原理観が入り、主体的な意味での価値観という言葉はないからだ。価値観の話をする以前の問題として、人類は堕落し自分は堕落人間だという認識が入っており、よって全てを否定すべき自分であり価値観という観に関する事は上から受け取るもので、自分発信の価値観となるとそれは自己中心だという堕落性で括ってしまう。それは価値観に留まらず宇宙観も人生観も幸福観も全てにおいてそうだ。観は天の観であるべきで天と一体であられる御父母様の観、御父母様から流れ来る中心の観へという認識があるので、自分の価値観などもっとも否定し追いやってきた価値観だ。その認識を洗脳されていると世間は見るのだろうが、食口にすれば堕落人間の各々の価値観など天に繋がらないし認められない、それこそサタンに害され洗脳された価値観だと思っているだろう。しかし良くも悪くも変革の時代を迎えている。自我を否定する在り様、自分の観を持たず上からの観をそのまま受け取る在り様、そんなものを備えられるはずがないという二世や三世が当然出てくるし、三分割されている今の状態では信じていた中心的価値観が役に立たなくなっているということもある。しかしそれは表面的なことで、掘り下げた霊的核は一つだということに変わりはない。北朝鮮のマスゲームがひとつの頭と繋がっている全ての末梢神経としての人民一人一人だからできるように、教会の合同結婚式も真の父母というひとつの魂から分化した、霊的親子関係である食口ひとりひとりだから成立する。北朝鮮は生命体の思考に於いてひとつだけれども、教会は生命体を超えた魂の体に於いてひとつだ。位相を超えてひとつだ。さらに今の時代は、食口は魂の体を超えて霊的にひとつであることへの認識に目覚めなければならない。霊的という言葉は使ってきたけれども認識として魂次元に留まっていた。その意味で本当の意味での霊的認識に深めていく必要がある。変革の時代を迎えて今までの在り様を否定したのではなく、あるいは方向転換したのでもなく、霊的位相の段階を上げていくことで主体的な価値観を備えることができる立場に立っている。別の言い方をすると、価値観を全く同じにしなくても観を超えた部分でひとつだという絶対的認識が価値観の多様性を許している。

2018年7月3日火曜日

今日の想い 978

男尊女卑という言葉は明らかに差別的な男女関係の言葉だ。しかし男性が主体で女性が対象という表現は差別的な言い方とは異なっている、と私は思うのだが、原理は男性主体目線で書かれているのでバランスを欠くというのは十分に差別認識を主体対象関係にみているということだろうか。バランスを取った改訂原理というものが一体どんな様相を呈しているのか、私ならずとも食口皆が大いに関心を持つところだろう。しかし原理までも改訂されるとなるとさすがに、今まで揺らがなかった信仰を検証し直してみようかと思う食口も出てくるはずで、サンクチュアリは攻めどころがここ本丸に至って益々意気揚々となるはずだ。御母様を中心とする後天時代の船出はここに至って益々創造の初めの混沌化様相をみるようで、それを俯瞰でみれる位置には誰も立てなく、皆が皆一人残らず混沌の中に翻弄される。ようするに固く立っていた先天時代の信仰の基台そのものが足元から崩れ落ちていく。これまでのように信仰の補強や調整で何とかなるものでは全くなくなる。アメリカの食口の中でも特別御母様に関心を持たれた兄弟がいるが、いつもとは参加者も至って少ないJULY4TH前の昨日の聖日礼拝の場で、天宙がひっくり返るほどのこの話をスライドを追いながらゆっくりと進めていた。そして礼拝が終わればいつものようにあちこちで兄弟達の歓談も見られて、何のことはないという雰囲気だったが皆の胸の内は本当はどうなんだろう。私はというと、やはりここまで来たか、さもありなんという思いだったが、実際のところ改訂原理を受け取らなければ何とも言えない。御父母様の祝福を通して、私達一人一人の中に天に繋がる心情を相続されたのであり、それは霊として良心の輝きとなって生き続けているが、その良心が素直に言われるがままを受け取れと言うのかどうか、今の今は何とも言えない。

2018年7月1日日曜日

今日の想い 977

ラスベガスには如何わしいショウもたくさんあって、以前責任者からこんな話を聞いた。御母様が責任者達を連れ立ってトップレスショウを見学したという話だ。嬉々としてその話をされる責任者に敢えて微笑んで相槌をうちながら、私はこんなことを考えた。これは御父母様が仕掛けた責任者に対する試練なのか、しかしサタンの誘惑は神様が許さざるを得ないから誘惑への試練となるのであって、神様から試練を仕掛けることはないはずだが、、。では純粋に御母様は我々がこういうショウを見ることに罪の意識を覚える必要はないということなのか、等々自分なりにいろいろと思案してみたことがある。ラスベガスをシンシティからサンシティにと話された意味は、至る所にある堕落性を誘発する根を引き抜いてしまえばサンシティになる、という意味からだと思っていたのだが、そんなショウ等も含めて今のラスベガスそのものをサンシティにされたのではないか、という思いも次第に強くなっている。だから敢えて御父母様は責任者達をショウに連れていかれたのかも知れない。それぞれがどんな思いや感情を抱くかも踏まえてだ。確かに私は性の表現に対して恥ずかしいという思いを持ち合わせている。では性に対する欲望、欲情そのものは本当に恥ずかしいことなのだろうか。或るブログで、夫婦生活であっても欲情で相手に接すれば堕落的だと言っていたが、それについては一言あって、食生活に欲があるように性生活に欲があって何が悪いのかというのが私の持論だ。むさぼるかどうかは別にして、性欲で接するのが本当に堕落的であるなら敢えて交わりを禁じてしまえばいい。私は欲のない夫婦生活などかえって気持ち悪い。そこに愛の妙味もないし人間らしさもない。覚めた冷たい機械的無機的な動作でしかない。人類の文化史を見れば、先ず外的文化の形成は常にカイン圏で為され、そこにアベル圏の内的文化が合わさって来たのであって、性文化に於いてもカイン圏のそれは堕落そのもので、それとは全く異なった在り方でアベル圏の性文化が湧いてくるとはとても思えない。トップレスをいかがわしいショウと表現したが、もはや私達の言葉に、いかがわしいという言葉はなくなっているのかも知れない。情欲を抱いて女を見れば罪なのだろうが、情欲で愛すべき妻を抱くのは罪ではなく悦びだろう。実は60も過ぎれば欲さえ抱けなくなるという別の夫婦間の課題があって、愛のモチベーションは肉体を超え魂を超え霊的領域へと探っていかなければならない。