2018年10月15日月曜日

今日の想い 1012

オウム事件から学べることがある。いや学ぶ必要がある。それはオウムと私達がよく似ていて、やもすれば彼等と同じ内的状況に陥ってしまうからだ。陥ってドツボにはまり抜け出せなくなる。彼等は実は信仰を要する宗教を求めたのではなく、感覚で受け取れる神秘を求めた。どれだけ神秘体験をしたとしてもそれで人格が向上するわけではなく、彼ら自身は霊的に高められたつもりでいたかも知れないが、異常感覚や興奮感覚を覚えただけでそれをこの世の人間を超えたと勘違いしていた。霊的なことを感覚的なことで実感しようとするのは形を変えた唯物主義者だ。感覚で地上は実感できるけれども同じ感覚で霊界は実感できない。神秘体験したとしても霊界の事実をそのまま受け取ったのではなく、象徴的、あるいは比喩的に、時として全く逆のイメージとして体験している場合がある。私達の中にも自分は霊的だといって、夢を見たり幻を見たりしたこと、感じたことをそのまま霊的事実やお告げだと言い広める食口もいるが、それは霊界を理解していない。それは宗教人ではなくオカルト人だ。正確にはオカルトでもなくオカルトもどきだ。宗教と科学の統一、霊界と地上界の壁をなくすというのはそういうことではない。オウムは良心と良心の背後に存在する神様を無視した。日本の信仰は多くが日和見主義的で、周囲を見ながら内面への波風が立たないように配慮する信仰に傾きやすく、それは受動的信仰に留まらせ主体的能動的信仰とは異なってくる。霊感商法、そして募金を隠れ蓑にした万物復帰も、自分としての意志を持たない受動的信仰だからこそ中心の願いの手足になれたのであって、当時能動的信仰に立っていればそれなりの道徳心によって成り立たなかっただろう。中心の願いが強盗や殺人でなかったから良かったものの、この受動的信仰はオウム真理教に帰依する信仰観と同じ危険的要素を孕んでいる。幸いなことに御父様は良心に対するみ言葉宣言をされたので私達は能動的信仰に立つことを許された。しかし先天時代の受動的信仰を後天時代に入っても維持し続ける食口は、良心の声を意識できないまま川に突入する豚の群れの一人になってしまうだろう。この三分裂した状態で流石に良心の声の重要さを思い知るかと思いきや、益々良心の声を無視し続ける者がいる。誰に付き従うにしても、或いは正しい御方に自分を預けるとしても、良心を無視したまま従うことは返って霊的破滅に向かうことになるだろう。誰に従ったかではなく、それが良心の声に従った行動なのかどうかを問われることになるからだ。

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