2018年10月30日火曜日

今日の想い 1017

人は確実にこの世を去る。そしてそのときを確実に迎える。しかしこの事実をどれほど強調しようにも、周りでバタバタと人が死んでいく状況や人がイメージとして捉えられる数年先までの死の宣告がない限り、なかなか死の準備、それを終活と表現していいのかどうかわからないが、特に内面について整理に手を付けようとは思わない。では食口はどうかというと、原理を受け入れ、死後に住む霊界の存在を知っているなら、旅立つ準備に関してはこの世の人達とは異なって当然なのだが、果たしてどうだろうか。自分の霊界での様相と使命、すなわちあるべき姿勢といくべき方向性をはっきりと捉えていて、その準備を死の門をくぐる前にしておかなければ、み言葉は聞いたけれども受け止めておらず、祝福は受けたけれども実にしていないという、結局普通に生きて死んでいくこの世の人達と変わらない人生だったということになる。もし天国に行けると思ってひたすら御父母様という存在に寄りかかる信仰観なら、ものの見事に裏切られるだろう。霊界の報告を聞けば天国は犯した罪を首からかけて生活するわけで、それが言葉通りの天国だというなら私は御免被りたい。そこには教条主義で善悪存在を振り分ける真の愛とは名ばかりの冷たい世界が広がっている。天国は既に作られて用意されているところではなく、真の愛の満ち溢れる世界を私達の手で創造していかなければならない。もしその霊界報告が正しいなら、それは仮の天国であって本天国とは異なる。私達祝福家庭は天国創建のブループリントを御父母様から頂いていて、それに沿って私の天国建設の使命が何なのかを死の境界を超える前に悟って準備しなければならない。地上天国が為されていないように天上天国も為されてはいない。地上で解かれることは天でも解かれるのであって、ブループリントを祝福によって新たに備えられた魂でしっかりと読み解きながら、真の愛が地上で投入されれば天地を直通させる高速道路はそのまま天上の天国建設を促進していく。今の状態を正反合の反と解くのか、或いは正分合の分と解くかは誰々の責任だという他力的なことではなく、そこに真の愛が私を発信地として投入されれば正分合になるしそうさせる使命がある。私達子女としての霊的使命は、子女として母に対するのに真の愛で対しているかどうかを問われている。それは生きて御父様を霊界に送った子女として霊界の境界を超える前に、母に対してそれぞれが結論付けなければ、霊界で子女の位置に立てるという自信を見失うことになるし、それは霊界で御父母様を見失うことを意味している。

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