2018年10月11日木曜日

今日の想い 1011

長い間ビジネスに関わり思うことは、食口は教会体質に毒され、洗脳を受けていると言われても仕方がないということだ。教会の関与する殆んどのビジネスが利益が出ない、すなわち発展的ではない実情があるように、この部署に於いても利益が出ないという問題が会議の場でいつも提議される。そして既に出尽くしている利益が出ない原因をいつの会議に於いても繰り返し繰り返し、そしてああそうですかと納得した風にして会議は終わる。私に言わせれば利益がでないのは当然であって、それは旧態依然とした体質を引きずったまま新たな体質を築こうとする意志の不在が本質的課題としてあるからだが、そこまで深堀する責任者はいない。以前はビジネスとは名ばかりの、給与体制ではなくファミリーファンド、すなわち必要経費だけを給与の代わりに宛がわれて謂わば奴隷的に働き働かせることで利益を計上させてきた。奴隷と言われれば気分を害するのだろうが、食口は運営上の歯車でしかなかったし、歯車としては磨き上げられたがそれ以上を求められはしなかった。レストランという決められた空間と決められたルーティーンジョブを毎日繰り返す時間が全てであって、新しい空間を求めたり創ったり、決められたレール以外を歩む別の時間を経験したりということは歯車としてだけ訓練された食口にとっては見知らぬ世界だ。その受動的体質は会議にもそのまま表れていて、終始イエスマンで中心者の意向に沿う形に会議を終えようとする姿勢にそれが見える。中心との一体化を物言えぬイエスマンと勘違いしている。一体化という絶対服従の勘違いは、与えられた環境に対して歯車として自分を合わせることではなく、新しい空間と異なる時間を創造する本然の意志に従うことだということがわかっていない。それは能動的自分を復帰して取り戻さなければ、子女の位置にはいつまでも立たないという奴隷に甘んじたまま先天時代の信仰を維持し続けることになる。蕩減は既に終わっている。意志を持つ復帰された自我を取り戻したはずだ。その新しい自我は自由と責任の神霊と共に時代を創っていく。

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