2018年10月6日土曜日

今日の想い 1009 (男と女)

私が生きてきて最も不可解なのは、宇宙でも霊界でも人の世でもなく、何言おう女性という存在だ。女性という存在ほど不可解なものはない。もちろん妻を与えられ一緒に半生を共にしてきた訳だから、どう感じ何を考えているかは大体わかる。しかしそれは相対としての妻であって、妻は女の括りにはあるが私に対して女性を持ち合わせてはいない。女性としての妻はあるのだろうが一人の女が妻となってからは女性を感じ取ることはない。ようするに情動は動かない。極と極、東の果てと西の果てに男女は存在しているというみ言葉があるが、極と極でわからないからこそ惹かれ合う、というのも一理はあるかも知れないが、私が頷けるのは逆で、知りたい理解したいという衝動が働く以前に先ず惹かれてしまうという情動の事実がある。堕落と関係のある異性への情動がどうして発動されるのかまったくわからない。男性としての自分の中に情動を発動させる引き金があるからだが、それは私自身が引くのではなく明らかに女性が引いている。自分ではうかがい知れない間合いや状況で、一方的に引っ掛けられるように引き金が引かれる。私達の祝福結婚はその情動からの結婚ではなく、男として父母から一方的に一人の女を与えられて先ず体を合わせるところから出発する結婚だ。要するに器官を合わせそこから情を起こさせ魂の一体化に向かわせる。情動から出発すれば相手に向かっていた感情が切れてしまえば縁も切れてしまうが、絶対信仰すべき器官から出発したので感情がズレても(それは頻繁にズレるのだが)それでも絶対信仰すべき合わさった器官があるので縁が切れることはない。その意味で祝福結婚は過去にない画期的な儀式だろう。私の周りに女はいくらでもいる。その多くの女たちは媚を売るでもなく目を合わせるでもなく何の関係もなく素通りしていく。しかし或る女は女性を見せて足を止め、私の情動への引き金に手をかけていく。その女性としての女のあらゆる部位から見えない手が伸びている。流れる髪や透き通る肌から、瞬く瞳や潤う唇から、女のあらゆる部位から情動を弄び穿刺する口吻なのか、その類の見えない多数の触手が延びて弄ぶ。この歳にしてやっと、いくらかは客観的な観察ができるようになったが、自分としてはこの女の性という不可思議存在であり危険存在達が、周囲に満ちる環境圏をよくも生き延びてきたものだと感心する。堕落したエバは今も女の中に女性として生き続けている。女の性の中に霊的存在として生き、男性に関与し続けるエバの存在を創造された神様、その神様の危険極まりないエバ創造の意図もまた不可思議の領域にある。女性全般の霊エバによって情動という男の性が引き出され、引き出された情動は女性と一つになりたいと体当たりしながら恋愛感情を爆発させる。それに関わる全てが堕落性だと断定することもできるけれども、愛と性(エロス)の間の深い溝を埋めるのに、霊界と地上界の間の深い溝が堕落によってもたらされたという同じ言い方で言えるのかどうか、それは今の今までわからない。しかし縦的関係性に於いては霊界と地上界の間に深い溝があり、横的関係性に於いては女性と男性の間に深い溝がある。この人生でひとつわかったことは、霊界への溝を埋めるのに強い酒や麻薬は禁じ手で犠牲や苦難が正しく溝を埋められるように、異性への溝を埋めるには異性への嗜好や性の悦楽は禁じ手で忍耐や自制でこそ溝を埋められるという事実だ。

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