2018年10月7日日曜日

今日の想い 1010

原罪のあるないの論議はやめた方がいい。血統の元を見れば堕落の存在でありながら、その上に形成された魂の知情意でもって判断しようとすること自体無理がある。どうしてもその判断が必要であれば、祝福血統の三代圏を超えた霊的基盤の上で形成される魂に委ねるしかない。良心の声に忠実であれば判断できるというのも間違っている。だいたい良心はそんな判断はしない。良心の声は私を霊的にどう生かしどう立て直すかであって、原罪のあるないの地上的判断は霊的なこととは異なる。知的にあるいは感情として認めるとしてもそれは知的に論議を楽しんだだけであり、或いは自分の気分として落ち着きどころを見つけただけであって、魂を超えた霊的生命は異なる次元にあって霊的に生きることに必死だ。信仰の道を歩んできて、原罪のあるないの論議とは別に、また御父様と御母様の言われることが異なって躓くのとは別に、さらに真の御家庭がバラバラになっているのとは別に、自分の良心に尋ねることで霊的に活きる道を歩んでいるのかどうかはわかる。原罪がなくなったといって堕落性をそのままにしておいては、原罪を帳消しにしていただく意味はないように、原罪の問題や御母様への疑問、ご家庭の問題に頭を突っ込んだままみ旨への意志を失えば、元々許され救われる為に歩んでいたのではなく、批判し論議するためにこの道に立ち寄ったに過ぎない。それこそが山羊の正体だ。救われる魂を持つ羊だというなら外に問いを立てる前に自らの内面に問いを立てるはずだ。私は何の為にこの道を選び何を得るために歩んでいるのかと、、。そして御写真の前で私はこう言うだろう。正直に言って独生女の意味もわかりませんし、原罪が何かもおぼろげですが、私は御父母様によって魂を救われました。赦され救いに与った息子の位置で良心に鑑みて生涯御父母様に侍ります、、と。

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