2024年8月1日木曜日

今日の想い 1311

教会は民主主義ではないから会議するという習慣はなく、集合すれば上意下達で終わって食口は全て受け止めて終わる。しかし摂理の要求としてビジネス活動に入るとなると皆のいろんな意見を集約しながら目標なり願いを達成することになる。当然会議も必要になるのだが、食口達にその習慣がないためか度胸すらないのか、立てられた中心者からの方策に頷き聞くだけで意見も出ず、ましてや丁々発止の議論の遣り取りもなく流れてしまう。私のいた部署はほぼ30年間、会議と呼ばれる集まり自体は多かったものの、会議の体を為しておらず、売り上げも減り店も減るばかりで大した発展もなく時間だけが流れていった。宗教は阿片だと言う者もいたが、こんな発展も成長もなく時間だけを費やしているのなら、その言葉は意外と的を射ているのかもしれない。信仰生活を歩んでいる途中のどこかで闘いを諦めてしまい、そして公私の願いも欲も諦めてしまい、戴いた祝福だけを護りながらこの世を去っていく。でも本当の意味で祝福を花咲かせ実を実らす為には、願いも欲も抱えて生きながら、自分の弱さと闘いながら、精神位相の断崖を登っていかなければならない。あれほどにみ言葉を受け訓読の日々であるなら、み言葉の心情を相続して語る言葉に魂を感じるはずだがそれがない。それどころか逆に言葉が貧しく弱弱しさしか感じ取れない。み言葉を教条的にしか受け取れない腐った輩は無視して、み言葉の心情、み言葉の魂に相対し、自分の中に根付かせ成長させなければ信仰生活している意味はないだろう。真の父母の願いを成就する為に生きてこの道を歩んでいるのであって、教条的に形だけ父母に従っている風を装ったり、嘘臭い御母様賛同の言葉を連ねるだけでは真の父母の子女とはなれない。教会のお花畑の在り様にさえ剣を投げ込めずに、どうしてこの世に対峙して摂理的方向に導くことができるだろうか。

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