2024年8月6日火曜日

今日の想い 1312

 未だに眠りから覚めず、何の根拠もないのに今の状況を楽観視している食口がいる。しかも大勢いる。笑みさへ浮かべながら「打たれたからこれからは神が打つ場面に移る」と壇上から言われると、大きく頷きながら大きく拍手している。打たれた?、、打たれた自覚が本当に食口達にあるのだろうか。既に何度かこのやるせない感情を吐露すべく記したが、溜息は大きくなる一方だ。繰り返しになるけれども食口に責任感情という痛みはない。失敗したこれまでの摂理に対して何の負債も感じてはいない。勿論口にはするけれども胸の内にそれは見えない。祈祷条件を立て地を叩いて涙の祈りをするけれども、時間が来て顔を上げた途端に本人の祈りではなかったかのように普通に生活に入る、、あの感覚だ。自分の嘘を嘘と見抜けない、虚実同居する矛盾を、原理を通して堕落人間の矛盾性を嫌というほど学んだ立場で自己の矛盾性を見抜けない、そういう自分であることを食口はどう思っているのだろうか。シンポジウムで教会側に立って語る言葉は私達に甘いけれども、そんな言葉をかけられて満足して帰路につくのは大間違いだ。できるならヨイショされるのではなく怒気を含めて叱咤してもらいたい。そうでもして叩き起こさなければ、眠りから覚めない私達だ。人は痛みがなければ他人事だ。他人事であればそこに責任感は伴わない。未だに私達の中には危機感の代わりに無責任な楽観的気分と言葉が充満している。子供は天真爛漫でいたいけな様はかわいらしい。しかし大人が無邪気な者ばかりでどうして摂理が進むだろうか。騙され食い物にされて終わりだ。せめてもの想いは、これを通して痛みを覚え、摂理を自分のこととして向き合える機会にしてほしい。

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