2024年8月19日月曜日

今日の想い 1316

 お盆を過ぎれば幾分涼しくなるだろうと思っていたが、しばらく猛暑は続くようで、昔の夏のことを思えば流石にここ数年は異常気象だという認識は間違いではないだろう。暑いから腰が重かったが、妹婿がわざわざ声をかけてくれて、田舎の家や墓まわりの草刈りを手伝ってくれるというので、言葉に甘えて妹夫婦と出かけて一仕事してきた。今年初めに老親を近くに移してからは何もしてないので、墓に向かう山肌の小道は等身大の草で埋め尽くされていた。いくら草刈り機があるといっても、この大草をひとりで遣りこなすとなると半日では終わらない。手伝ってもらって良かったと思った。枯れた杉の葉で覆われた墓回りも熊手できれいに掻いて、藪蚊が飛び回る中をフマキラーを吹きつけながら線香を手向け、花を挿して、皆で手を合わせた。この場所に来れば昔の様々な思い出の数々が、我先と押しのけるようにして次々と眼前に描写される。遠い昔の時間の狭間に捨て去り消え失せたはずの、あの取るに足らない体験が、この場に立つことで克明に描写される。となると記憶は私の脳裏にあるのではなく、この地この場所に釘付けされていて、それが私の体という媒体を通して呼び起こされるということだろう。もし私が霊的感性を更に鋭くしていたなら、私の思い出に留まらず遥か昔のこの地の出来事さえも呼び起こされるだろう。おそらく多くの人々は歌の如く、死者はそこにはいないと信じて疑わないだろうが、皆の祈りが死者をそこに呼び寄せるだろうし、祈る人々の念もそこに釘付けされる。実はと言うとこの田舎があまりにも不便なので、墓も今住んでいる近くに移動させようと場所と入れ物だけは数年前に用意していた。それは両親ふたりなくなってからとは思ったのだが、果たしてそれでいいものかどうか、再考する必要があることを学習した。

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