2024年8月24日土曜日

今日の想い 1319

 拉致監禁されて離れていった食口達。抜け出すまでの過酷な闘いは彼等の証しを通してその状況を把握できるのだが、証しとして届くのは当然試練を乗り越えて本人の信仰を全うした証しであって、それは拉致監禁されたほんの一部の食口だと私は思っている。そこで説得され霊感弁連のような反対派にそそのかされてメディアに利用される者もいることはわかったが、しかし彼等とも異なる、どっちつかずで流されたまま遠のいた食口達も多かったのではないだろうか。誘われるままに入教し、そして誘われるままに離れていった。私はその部類の人間だからよくわかる。確かに人生の問題に悩んではいたけれども、誘われたから飛び込んだわけで、もしもまだ若いし早いですよと言われれば別の道を辿っただろう。正直なことを言うと、拉致監禁の話を小耳にはさみながら私にもその機会がこないだろうかと願っていた自分を否定できない。それほどにノルマで追われる闘いの日々は厳しかったし逃れたかった。信仰を捨てるとかどうとかの前に、一端実績追及から自由になって自分の内面を整理する機会が欲しかった。ひょっとしたらその機会が持てるかも知れないと思っていた。幸か不幸かその機会はこなかったが、そんな食口も結構多かったのではないだろうか。私の道が開けたのは明らかに米国人事からであって、あのまま日本に居続ければ精神ストレスで廃人になっていたかもしれない。霊感弁連のいう奴隷的人生観ではないけれども奴隷的信仰の中で呻吟させたのも教会だが、主体的人生観を学び能動的信仰の中で光を求めることができたのも教会だ。正直なところ、日本に居ながらにして主体的能動的な自分をどう立てるかは見えてこない。教会以前の問題として未だに日本社会全般がそういう人間性を受け入れずに否定したままでいるからだ。教会に所属する食口であれば今回の件で献金にしろ伝道にしろ一端枷が外された訳で、そうなると教会改革というより人間性の改革へのベクトルは取りやすいし、今が絶好の機会だと私は思う。ノルマで疲労困憊していた食口にしてみれば教会は打たれているけれども個人的には胸を撫でおろしている。しかしそれで安堵するのではなく、今度は主体的自我を取り戻し、その上で主体的能動的に教会改革に関わり臨んで欲しい。反対派弁護士がいう奴隷的犠牲的人生観を打破して欲しい。

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