2024年8月31日土曜日

今日の想い 1322

 日本食口が今すべきことは修練会に参加することでも、信仰生活のルーティーンに忙しくすることでも、そして兄弟達の集まりで認め合ったり慰め合ったりすることでもない。今すべきことは、自分としっかり向き合い良心と対話すること。それは声を張り上げ誰に届くでもない言葉を羅列したり、気分の高揚や涙を流すことを目的化する祈祷条件でもなく、ひたすら納得するまで自分の内面に向き合い、或る時はさまよったとしてもそれでも内面に対峙することだ。自分の信仰が表面的なものなのか、内面のあらゆる霊を納得させた上での柱としての信仰なのか、先ずそこが神から自我を与えられた私の生きる信仰としての出発点だ。霊は私の外に見るものではなく、善霊であれ悪霊であれどんな霊であってもその霊の集合が私であり、そんな霊達の声々が止めどもなく我先に叫ばれ、声の大きい霊の群れが私の魂の衝動となっている。そんな自分の内面の実態を無視して、与えられた表面的信仰で紛らすことは良心の願いに生きることとは異なっている。先天には先天を主管する神霊の縛りがあって、良くも悪くも内面の霊は地の底に封印されていた。しかし現代社会の状況がありとあらゆる声を発する多様化された時代となって、霊達の露(あらわ)にされた姿勢や衝動を混乱社会に見るように、全ての人々の内面も地の底が撤廃され霊の洪水を起こしている。それはまさしくアボジが霊界と地上界の堺を撤廃されたことによる現象だと理解できる。聖杯が行方不明になり皆が囲っていた円卓が壊れたという聖杯伝説に見るように、アボジという聖杯は基元節を前に忽然と地上を去られ、教会という円卓は三分割から何分割にも壊されてしまった。神様と一体であられるアボジを探して出会おうとするなら外に探すのでなはく、内面を尋ねながら出会う道しか残されていない。しかしそれこそが神霊となられたアボジに出会う本道だろう。もちろん御母様に神様の権威を尋ねるのは間違いだとは毛頭思っていない。しかし御母様に侍るとしても御自身が私達を良心を尋ねる本道に導かれるはずだ。

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