2024年8月20日火曜日

今日の想い 1317

食口に会って私の歩んできた概要を説明すれば、アメリカで頑張ってこられたんですねとしか言われない。その言葉に幾分の羨望と敬意はありながらも、叱責どころか一言の苦言を呈されることもない。日本の主要摂理は献金路程であったし日本からの献金なくして韓国もアメリカも世界摂理も回ることはなかった。本来なら日本の食口はそれこそ骨身を削ってでも支えてきて結果生活苦に埋もれる者も多いのに、海外に出てどういう結果を出したのかただ生活を援助しただけなのかと御叱りを受けて当然だし、疲労しきった日本を今度は逆に援助してもおかしくないでしょうと迫って当然だろう。しかし今の今まで誰に会ってもそんな言葉をかけられたことはない。アボジの地上におられる間はアボジの言葉が摂理であり絶対だった。それは日本もアメリカも韓国もそうだった。願われて捧げたものに対して一言もなかったし、摂理的事業に投入する側も何の意見も物申さず言われるままに注ぎ込んだ。願われたからやっただけでその結果に対して責任はない。それは出す側も使う側も同じ認識でどちらももう一方に対して言葉も感情もない。アボジに責められて初めて立場を認識するのだが、そのアボジは今は地上におられない。よって過去は封印されたかの如く何も触れずそのまま摂理を進めようとするけれどもそんな単純は話ではないだろう。個の発展も教会の発展もそして摂理の進展も総括するという段階を踏まない限り次には進めない。レストラン摂理で何件つくるようにと言われたその言葉だけを切り取って突き進もうとするけれども、結果が全く伴わずそれでもその言葉だけは後生大事にして死んでいく、という同じ状況が摂理的部署それぞれに見受けられる。総括するということはアボジの地上不在を受け入れることであり、アボジ先導型摂理の先天から良心を通して天の摂理を受け取るという後天へのシフトチェンジだ。言葉もなく責任感情もなしでどう反対する社会的権威に立ち向かうことができるだろうか。

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