霊的に成長するという意味を本当に知っているだろうか。おそらく多くの食口は、成長するという、時には残酷でもある犠牲を含むその意味を知らずに生きている。人間の体の成長も生きている多くの細胞の犠牲の上に成り立っている。そのように霊的成長も同じように犠牲が伴うことを知らなければ本当の成長は為しえない。一世で献身を決意してこの道にきた者であれば、そこにどれほどの犠牲を払ったかを覚えているはずだ。先ず本人は親への想いを断ち切る必要があるし、当然親はその何倍もの想いがあり、それらを犠牲にして献身している。蓄えや職場などの外的なこともそうだが、断ち切らなければならなかったそれ以上の関係性は親子の事の他にもあった。もし献身して歩んできたことが本当に私の願う人生だっただろうかと問う者がいるとすれば、その決意は本物ではなかったという証拠であり犠牲を無駄にしてこの道に逃げてきたに過ぎない。だから後ろ髪をひかれるようにあの時に戻ってやり直したいなどと甘えごとを言う。戦時を超えて生きながらえた者は、後の日本の発展は戦死した戦友や親戚知人などの多くの犠牲の上にあることを魂に沁みて知っている。だからどれほど苦労の人生だとしても彼等の犠牲を無になど到底できないという想いがあって生きてきた。その想いは戦争を知らない世代であっても相続すべきもので、反戦教育で植え付けられる国家による被害と国家の否定という認識と感情とは全く異なる。人類が霊的段階を上げるべく発展してきた歴史を辿れば、新たな段階に踏み出す前には必ず大きな犠牲が供えられている。教会も摂理を進める為に多大な犠牲を供えてきたけれども、もしそれを被害と捉えてしまうと祝福家庭達の霊的段階を上げての発展は見込めない。アブラハムはイサクを犠牲にしようとしたけれども、もし冷酷にも神様が止めずにそのままイサクが供え物となった場合、そしてアブラハムが嘆き悲しみ恨んだ場合、それは犠牲ではなく被害でしかなかったしイスラエル民族の発展はなかった。全ての犠牲は人間的感情で捉えれば被害でかたずけられる。あらゆる辛苦のひとつひとつを被害として落とし込むのではなく、犠牲として昇華させてこそ霊的成長、精神の高みに段階を上げる。そして供えた犠牲が私と共に活きる。
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