2007年7月24日火曜日

ホームランド (3)

私も相対も広島の出身だ。もう十年近く前だったと思うが田舎の両親に往復チケット二枚送り、こちらに尋ねて来るように伝えた。それまで一度もアメリカに来たことはないし、息子夫婦と孫がどんな生活ぶりなのか知ってもらいたいこともあったが、それより広島出身の私の親を呼ぶことの意味は他にあった。ワシントンにはスミソニアン博物館がある。そしてその博物館群の中に宇宙航空博物館がある。今では見ることができないが、その博物館の一角に広島に原爆投下したエノラゲイ号が展示されていた。親を呼ぶことの意味は正にこれだった。アメリカのワシントンで一聖業を預かる者として、原爆を落とされたその地の者として、親子三代がエノラゲイ号と対面する。どんな言葉を親父の口から聞けるのか楽しみではあったが意外とあっけなく「これか、、、」と言っただけであった。しかしこの対面こそが真の父母を知り認知する者としての大きな意味のある儀式なのだ。広島を代表して恨みの感情を燃え上がらせるのではなく、今となっては聞く耳も無く見る目も無い魂たちの目となり耳となって、これがあの時の空爆機ですよ、こうなりました、ああなりましたと説明を受けて報告する責任が自分にあることを感じていた。鎮魂する以前の事として先ず説明責任が被害を与えたものから為されねばならない。自分はその仲裁の位置にある。アメリカはアメリカで原爆投下に対して正当化しきっている。日本の多くのものはいまだ救われない魂のあることすら忘れ去っている。そのはざまで神と悪魔の取引に翻弄され犠牲になった魂は行き場を失う。癒して差し上げよう等とおこがましい気持ちはない。ただ今の自分に何が出来るかを進めるしかない。訓読すればみ言葉の中に自分の救いを見出そうと、なぞるみ言葉に張り付くように文字を追っている多くの魂がその場にある。一句一句に祈りと感情を込めながら頁を進めていくことが彼らに対する優しさだと思っている。

ホームランド (2)

原爆といえば放射能を浴びることによる被害が大きく知らされるが、このとてつもない威力の爆弾が炸裂することによる爆風と熱線による被害をまず直視しなければならない。放射能による被害も後々尾を引く大変なものであるが、この爆風と熱線が一瞬にして地獄絵図を現世に現した。熱線を直接受けた者は皮膚が焼き尽くされ溶けた皮膚が垂れて臓器がむき出しになる。強烈な爆発による風圧で瞬間的に気圧がさがり眼球や内臓が飛び出す。爆心地から数キロ圏内では焼け焦げた死体で埋め尽くされた。焼け焦げた身体を癒そうと飛び込んだ黒い死体が累々と本川を流れていく。垂れ落ちる皮膚を纏い、腕を下げると指先に激痛が走るので腕を胸のあたりまでもたげながら水を求め彷徨う姿は幽霊そのもの。爆心地から幾らか距離を置いて直接的被害から逃れたものには放射能の被害が数日を置いて襲いかかる。頭髪の脱毛が放射能を受けた合図となり歯茎からの出血、身体には紫色の皮下出血斑、顔にはヒルでも皮膚の下で這っているかのような赤紫の斑点で被い尽くされる。喉の痛みで物を飲み下せなくなるとともに歯茎からの出血が止まらず死に至る。この生き地獄を目にしたものはこれほどまでに人間は残酷になれるのかと思ったに違いない。この有様をどう捉えどう説明することで魂は癒されるのだろう。夜な夜な川面のほうから助けを求めに来ていた夥しい亡霊。癒しの言葉をどうやって見出せばいいのか。日本民族としての連帯罪の清算。おそらくそうだろう。しかしそれで納得することはありえない。地上天上に御国が為されて神様自身が彼らの身に味わった以上の辛苦を舐めてこられたことを理解したとき、初めて浄霊を受けるのかもしれない。摂理に加担するものとして救いを求める多くの魂の重みを感じるものでありたい。

ホームランド (1)

広島は選ばれた蕩減の地だ。八月六日のその日がまた近づく。入教したての頃の教会は誰もが知っている原爆ドームの直ぐ近くにあった。というより教会として借りていた建物が爆心地である。その建物の頭上580m上空で原爆は炸裂した。借りていた建物は二階建ての簡素な木造建築であったが広島が廃墟になる前の建物は立派なつくりの病院だったようだ。入教当時その教会では様々な霊的現象が起こっていた。なかにはエクソシストさながらの事件もある。いつの季節だったかよく覚えていないが夜中に大騒ぎになったことがある。二階に女性が休み一階の礼拝室で男性は休んでいたが夜中二時を回った頃だと思う。大きなゆれで目を覚ました。誰もが地震だと思えるほど大きなゆれが続く。しかしどうも様子がおかしい。玄関の辺りがやけに騒々しく、表から鍵のかかった開き戸をどんどん叩きながら太い男性の声で何やら訳の分からないことを叫んでいる。二三の兄弟が飛んでいって事は収まったようなのでまた眠りに付いたわけだが、明け方事の様子を知らされてびっくりした。ひとりの姉妹が霊的になり危険なのと周りの住人への配慮で、車で十五分くらいのところにある当時事務所で使っていた場所に移し興奮が収まるのを待つことにした。しかし送ってものの十分も経たぬうちにその姉妹は靴も履かずに抜け出し、まさしくとんで帰って教会を揺さぶる。いつもは目立たない小柄な女性が太い男性の声で大きな建物を壊れんばかりに揺するさまはホーラー映画さながらの事件で来教者への霊界の存在の証しとしてしばらくトークねたにされていた。自分こそメシヤだと叫ぶ者も現れたり人里離れた廃校で修練会をやれば参加もしていない女の子が写真に写ったりと、今思うと少々低級な内容ではあるが霊界を認める為の入門版のような事柄に事欠かなかった。それはそれとして広島に原爆が落とされた事実をどう捉えるか、ということが想像を絶する痛みを受けた多くの魂への責務として自分にあるはずだ。三十五万の町の半数以上が数日のうちに生命を奪われた。資料館に行けばその悲惨さの幾らかでも感じ取ることが出来ると思うが、それはまさしく言葉を失う。

2007年7月23日月曜日

杜若

数年前、業者から貰ったカレンダーの写真の中に、朝もやに浮かぶ青紫の花々の幻想的な風景が載っていた。どこかで見たような気がしてその写真の下に目をやると八幡湿原と記されている。見たことがあるも何も自分の故郷だ。霊界を映し出したようなその風景は、懐かしく見るというより何処となく暗さを思い起こさせる。日本の多くの田舎がそうであったように我が故郷も、都会から置き去りにされた孤独があってそういう気持ちにさせられるのかもしれない。しかし明らかに、そこに住む誰もが何か重いものを背負わされて暮らしていた。改めて故郷を思い起こすとそこは自然の営みの大きな流れの中で人間の無力さしか見出せない諦めと言ったらいいのか、その感情が村全体を占めていた。今と比べるわけにはいかないが、その当時でも住民は少ないのにそれでも自殺者は多かった。前の悲しい話が皆の間から消えぬうちに次の事が起こる。繊細な自分も子供の頃自分に纏わり付く亡霊を感じていた。目には見えずともいくつものそれがサクサクと音さえも聞こえるほどに魂を食むさまを感じていた。生きることの不安と虚しさが魂をすっぽりと覆ってしまう。だから自分を無いものにしようとしたそのやり切れぬ想いは、私なりに解かる。田舎の人は純粋そのものだ。そうであれば余計に悪魔の餌食となっていく。本来神が取るべきその魂を悪魔が掻っ攫っていく。霧の多い田舎では青紫のカキツバタの花弁の垂れ下がる様に亡霊を見る思いがしたが、晴れ渡った日のそれは純粋という花が咲いたような魂の高貴な姿を見る。祝福を受けた多くの善霊や先祖がその群生するカキツバタに喜びを表している。

2007年7月22日日曜日

使命完遂

生命を賭けて事に臨むという時にこそ本質の中に生きようとしている。生命を賭けると言う状況はそう日常的に起こるものではない。おそらく一生を通して一度あるかないかかも知れない。しかしその一度あるかないかの状況で本質的に生きれるか死ねるかの行動は、日々の生活を通して自分自身をどこまで純化できたかに依る。自分という宇宙の中に巣食う忌まわしい邪悪にどれだけ挑戦してきたかに依る。御父様は誰もが心の中で神と悪魔が戦っていると話される。自分の中に神と悪魔が同居しているのさえ解からないという状況は、私が心霊的な歩みの段階にすら届いていないということだ。飲み食い娶り、と言う自分中心の歩みの域から出ていない。どれ程神の名を唱えようが祈りの言葉を口にしようが、それは自分は信仰者だというただの自己満足だ。物が溢れるこのアメリカで消費し続けることに毒された体質で、どう自分を純化できるというのだろう。破裂するほどの腹を抱え、五感の心地よさだけを追い求め、その正体は生臭い慾の塊でありながらそれらを包み隠すことの才能は見事だ。しかしその太った蛇の正体が暴かれるときが直ぐ目の前に来ている。蛇にとっては裁きであるけれど、良心を心の奥深くにでも認めたものは恵みである。アメリカという国家の生誕にはキリスト精神が大きく関わっている。物が溢れるにしたがってルーシェル的な意識が勢力を増してきたが、キリスト精神の火種は消えはていない。その火種から炎を燃え上がらせ、アメリカとしての国家の使命、アメリカ市民としての使命を完遂するときがもうそこに来ているはずだ。生命を賭けて臨む愛の本質の中に入ろうとしている。そのお役目の旗持ちでもありそしてシンガリでもある聖軍としての平和軍だと、そういう意識を持ってその時に臨むべく、準備に余念が無い。

2007年7月15日日曜日

親としての覚悟

夜中12時を回った頃、今日の売上げの締めのためアパートを出ると、向かいの茂みの中から出てくる何か動くものが目にとまった。よく見るとどうも鹿らしい。鹿は夜も活動するらしく、アメリカでは夜中高速を走っていても鹿は良く飛び出してくるし、住宅地の近辺でも良く見かける。鹿もこちらに気付いたのか動きを止め、首を伸ばして揺らしながら光る眼をこちらに向けている。アメリカの鹿は野生であっても至って警戒心がない。私が何もしないのを見て取ると、茂みの中から出てきて歩き始める。しかしどうも動きが不自然でおかしい。前につんのめるようにして歩いている。よく見ると後ろ足の片方がブランブラン状態で、残りの三本の足で体を支えながら、身体を大きく揺らして歩いている。鹿は茂みを完全に抜け出ると暫く止まって首を茂みの方に向けた。向けたその先から一匹、その後に続いてもう一匹と小鹿が飛び出してきた。小鹿二匹がそろうとまた体を大きく揺らしながら先頭を歩き始めた。私はその母鹿と小鹿が歩いていくのを小さくなるまでずっと見続けていた。子供の為に痛々しさを気にもせず先導する母親鹿と、母の痛みも解からず安心しきってただただ付いていくだけの幼い二匹の小鹿。この家族鹿が視界から消えると、私の目から急に涙が流れてきた。親のあるべき姿をその鹿に教えられた。

2007年7月11日水曜日

頭を垂れる

食口は食口で、天の御心として自分は成長すべきだという意識が低かった。かたや責任者は責任者で食口を成長させようという意識も低かった。アベルであれカインであれ摂理摂理で自分の成長や兄弟の教育というのは二の次となり、そういった事を口にすること自体不信仰という空気があった。教育にはそれなりに暇も金もかかる。我々が成長しない限り摂理の進展もありえないとうすうす感じながらも、次々に来るノルマに翻弄されて今に至った。結果として、歳だけ取って役に立たない人材となる。外の空気に晒されれば自分はやっていけないと本人が一番解かっている。だから見っとも無い位しがみつく。曖昧にしていた信仰姿勢が感情となって噴出してくる。もはや外的な物の見方だけが心を占領し、自分は貧乏くじをひいたと腐る。内的な事や他に対する心の余裕はひとつも無い。外の厳しさに比べ中にいればその精神的苦労を舐めなくてよかった。完全な甘え人間に成り下がる。はっきり言うと個人も組織も一度清算しケジメをつけないと甘えの体質はいつまでも続く。本来体を使って一生懸命働くのは若いうちで、その間に籍を置く業種で知恵や勘、知識や感性というソフト面の価値財産を築く。その価値財産を使って将来的に体を使う以上の働きをなしていく、、、、というのが世の習いだと思う。しかし我々に於いてはただ体を動かしていただけで意識が働いておらず、ソフト面の価値が殆ど築かれていない。体が動かなくなったらそれで終わりだという思いがある。それを危機感として認識し意識を持たないとという想いに動かされればいいのだが、悲しいかな動こうとしない。何とかなると思っている。決して何とかならないのに、、、、。気付いたときには遅すぎたと言う想いもあるかも知れない。そして60に近い息切れのする兄弟を集めてああしろこうしろとオーダーを出す責任者の立場もまた、悲しい。この状況をどう天に申し訳すればいいのだろう。この状況から飛躍できるとしたら本当の奇跡だ。

2007年7月9日月曜日

瞑想(3)

全ての行動に、与えたいという衝動を動機付けて事を成していく。行動一つ一つに、自分と言う思いが無く惰性的な行動も無い。与える行動を持ってこそ自分と言う存在は他と関わることが出来る。この兄弟の為にという想いで携わったことで、この兄弟との関わりが出来る。お父様の為にわら一すじでもという想いでお父様との関わりが持てる。あるものを与えるとき物を与えているのではない。愛のひとつの形を与えている。言葉を渡すとき言葉を投げかけているのではない。相手に対する祈りを与えている。

瞑想(2)

安楽な想いの中に心地よい感情の中に、本質をみいだすことは難しい。困難な状況の中で様々な感情が自分を苛む時、本質は浮かび上がってくる。全ての起こる事柄の中に自分に取って無意味なものは何一つ無い。謙虚な心でその意味を尋ね請う。その意味するところをどうか教えて下さいと懇願する。自分は既に知っているという傲慢な心で本質を見抜くことはできない。謙虚であればあるほど事の本質、生きることの本質、宇宙の本質、を得ることが出来る。自分の中にある固定観念を打ち砕け。自分と言う定規で決め付けることをあきらめろ。嘔吐してヘタヘタと身体の崩れ折れるように自分を無力なものとする。そうすることで幽かな自分の生命力を広大無辺な宇宙の力に取って代える。

瞑想(1)

自分の内容があるかないかはこの際殆ど意味は無い。最初から内容などない。自分の心の闇から幽かに浮かび上がってくる魂の声を掬いだし、闇に埋もれる前に書き留める。自分の様々なる移ろい行く思考の断片を払いのけ、本質を見出してゆく。今日と言うこの時の中に余りある本質が影を潜めている。ただ単に見過ごし聞き過ごしやり過ごすだけでは何の宝も拾えない。探り当てる。戦いを挑む。安楽に感じているその中に見出せるものは安楽だけ。その安楽を崩す所から始まる。居心地のいいその心の置き場を崩す。崩した中から本質の一部が晒されてくる。本質を捉えず自分の生の永らえる意味は無い。本質はつかみ所の無い抽象的なものとは違う。本質は五感を超える手応えのある実体そのもの。与えられた事情圏環境圏そのものが事の本質ではない。それを道具として本質を見出す。えも言えぬ歓び、想像を絶する一体感、至上の安らぎ、こういった実感を五感で感じることは出来ない。

2007年7月8日日曜日

思考形態

この世の中にどっぷり浸かっているかどうかは、自分の思考形態を観察してみると良くわかる。世俗的環境に於いては、自分と比べるということに殆どの意識は使われる。比べるという意識は自己中心であればこそ出てくる意識だと思う。たいていの人は批判的思考が自分の思考形態の中心をなす。損得に敏感だとか悲観的だとか、優越感を覚えるとか減少感を覚えるとか、全ては比べると言う意識から発せられる。この世に於いては尊敬、畏敬、賛美、感謝の感情はなかなか育ちにくい。自分自身を新しい次元に昇華させようとするなら、こういった感情を自分で自分の中に生み出す努力を重ねなければならないだろう。一輪の花を見ながら、誰に見られるでもないその花が与えることだけに精一杯生ききろうとする姿を見て、はらはら涙が流れるほどの賛美や崇敬の対象となるものを環境や体験の中に捜し求める。環境や体験をただ受動的に捉えるだけではその発見は見出せない。想いを自分から能動的に働かせて接すると、世界は違う様相を帯びてくる。それは五感を超えた霊的感性の萌芽が目覚める時だ。五感を通して得る肉的要求の満足だけで生をおくる人は、人間本来の生とは程遠い。どちらかというと動物に近い。しかし先程述べた宗教的感情を育てるほどに神様に近くなっていく。生きる真の喜びを知るようになる。人間としての自己変革は、内なる思考生活のその深みの中で遂行される。自分を変えるとは思考を変える事である。

2007年7月3日火曜日

新次元の扉

摂理かビジネスかという話をしたが、摂理であるならそれはなにかということだ。摂理を進めるために金が必要だ、だからその金を生み出す為の金の鶏が必要である、兄弟ひとりひとりが金の鶏になりそしてより大きな金の鶏となる為に組織作りをする、しかし金を生み出すことが本当に摂理なのだろうか?摂理を進めるために金が必要であるのにその金を生み出す事自体が目標になっているような気がする。御父様の願いに応える為、摂理を進めるために、だから金が必要なのだというその想いがあるなら、御父様の願いの中に生き摂理に貢献していると言えるだろう。しかし金を作ること自体が目標となってしまって、たとえ結果的にはその金を捧げるとしてもそれは本当の意味で天の願いに生き摂理に生きたと言えるのだろうか。私はこの辺の本質的動機付けが全てを決め得るという気がしている。出しても出しても際限の無い献金活動、この根底にあるのは我々の意識が金を作ることに成り下がっているから、要するに潜在意識の中にとにかく金を作って出すと言う事を自分のなかに観念として刷り込んでいるから結果としてそうなっているとはいえないだろうか。金を出すことで完結できない摂理が本来我々の意識であるべきで、それがいつのまにか金だけ上に流していればという意識にすりかわってしまったためにその当然の結果として金を吐き出すことだけにアップアップしている。与えること、為に生きることが摂理の本質で、レストラン業を媒介として摂理するとはレストランを通して為に生きる、真の愛の及ぶ範囲を広めていく、天の愛の影響圏を広めていくと言うことになると思う。自分自身の転換点、と同時に私が預かっている店の転換点は明らかにその意識に目覚めたときだと思う。簡単にいうと金の意識から愛の意識に次元が上がった時全ての歯車が噛み合い始めるのだと思う。しかし完全にそのステージに上がり切った訳ではないのでまだそれなりにSTRUGGLEすることもあるが、しかし明らかに自分も店も従業員も金回りも前とは違ってきている。しかし天の本当の霊感商法はこんなものではないだろう。TPの勝利的内容は爆発的な運勢圏を天宙にもたらしているはずだ。そこに我々が直結するなら想像だにしない結実を目の当たりにする時が直ぐそこに来ているのかも知れない。その糸口が、霊界に通ずる糸口が、新しい次元に移行する糸口が目の前にある。同じ事情圏環境圏でありながら、全ての対象物が今までとは全く違ったものに見える発見が加わってくる。

2007年7月2日月曜日

歩みの本質

我々の歩みの本質は霊界にある。そう断言できる。このレストラン業を摂理として取り組んでいるのか、ビジネスとして取り組んでいるのかと問うなら明らかに摂理として取り組んでいる。摂理としてビジネスに取り組んでいるなどと、さも解かったような物言いをする兄弟もたくさんいる。がこれは言い訳の為の方便であって我々の歩みの本質ではないだろう。ビジネスとしての当然の行動も、摂理だからと言って抑えられる局面もあれば、逆にビジネスなんだからそれなりの結果を出せと責められる場合もある。要するに上の立場にある者も、これは摂理でありビジネスであるという、時として矛盾する内容を自分も分からずに思い込みで上意下達する。口の上での事ならそれで済むが、それを形にしようとすれば混乱を生じる。現場の者もそのまま受け取るなら店も崩壊するし自分も崩壊する。だから現場の者は混乱を最小に止める為のフィルターをその意識の中に用意している。自分と店を擁護する為の安全圏をその意識の中に用意している。それがいいとか悪いとかではなくそうならざるを得なかった。私は御父様が願われるレストラン業というのは摂理としてであり、要するにビジネスの形を装った摂理であって、摂理である以上全てにおいて金、金、金、金まみれの様相とは次元を異にすべきだと思う。勿論金自体も前から言うように万物の象徴、愛のひとつの形、愛のひとつの流れとしての要素も多大にあるというのはその通りだが、愛に絶対的価値を置いて、為に生きるという与える想いや意識があって、その上での愛のひとつの形としての金の授受であるべきだと思う。特に今回の要求もビジネス的に考えれば自殺行為に等しい。しかしこの出資(?)を損金として捉えあきらめるのではなく、教会を支えアメリカを支える為の愛の形として感謝して送る意識を何とかして創らない限り、後に繋げる希望は全く見えてこない。正直に言うと心の中は背水の陣だ。ここで踏ん張ろうと思ったら祈るしかない。祈って祈って神の言葉を聞くしかない。我々の歩みの本質は霊界にある。神の願いを知る為に霊界と100%繋がり、地上に基盤を築くための霊的アンテナとなって着々と摂理を進めていく。愛の粒子が我々を通して地上に流れ、愛の色にそこここが染まっていくのを霊視しながら摂理を進めていく。その域に達する為には祈るしかないと思う。霊的になるしかないと思う。そうして本来あるべきビジネスを超える本当の霊感商法がアメリカで花を咲かせる。