2008年6月23日月曜日

死に関して

生きて何処に向かうか。生は死に真っ直ぐ進んでいる。物質的な事にだけ目をやるなら生命ある存在はどんな存在も朽ち果てる。死が到着点であるなら生の目的は死となる。肉体という限りある形成物は地上に於ける自我の仮の宿だ。生に限りがあるという意味は限りがあるから生の価値があると見る。死を持って生の価値が問われる。だから生きている者のそれぞれの意味はそれぞれの死の認識に由来する。死後の世界があるとか無いとか、それも非常に重要な課題ではあるが病気にしろ死刑囚にしろ死の宣告を受けた者であれば切実な課題として捉える。しかし普通一般の人間は遠い先のこととして半永久的に生きるぐらいにしか思っていないので抽象的な事柄でしかない。現代社会の悪のひとつは周辺に死の臭いがしないことにある。回りで人が死ぬのを見、可愛がってくれた祖父や祖母の死を見ることが出来れば生きることの意味に目覚める。人間は死ぬんだという事実を突きつけられて初めて生きることの意味を問う。周辺から死が追いやられてから久しい。死を知らない存在は身体は動いていても眠りから醒めていない。幻想の中でみんな踊らされている。生きながらにして死の踊りを踊らされている。

2008年6月22日日曜日

内的自覚

目は視覚という受け取る感覚器官のひとつだ。耳は聴覚という受け取る感覚器官のひとつで、皮膚は触覚という感覚器官のひとつだ。感覚器官を通して受け取ったものが、どう自分の中で作用しているかの認識がない。受け取ったものが自分にどう働きかけようとしているのか観察する。受け取ったものを自分の思考を持って消化する。吸収すべきものを消化した中から内なる世界に取り入れる。そういった流れを認識するためには受け取ったものを表現する過程で自覚できる。例えば風景描写を試みる時に目という感覚器官から直接、手という描写しようとする器官に向かうのではない。視覚に通したものを一度内面に収めている。手を通して描くものは内面に自分なりに受け取ったものを表現していくのでありそれ故、同じ風景を描くとしても人それぞれに受け取り方が違うように表現も違ったものとなる。絵画であれ詩歌であれ何であっても受け取る対象を表現しようとすれば自分の内面の在り様や動きに意識的に関わらざるを得ない。そういう意味で常に表現を試みようと意識的に対象に向かう時、本質的内的態度を取っていると言える。そういう生活は霊的感性を高め、本質的価値に対する認識を得る。先ず行動を起こすことが必要である。今日一日の出来事を書き留めることからでもいい。どんなに些細なことでも自分の感情の動きを書き出すことで内面を観察する糸口が見つかる。

2008年6月20日金曜日

建国記念日

建国記念日が又やってくる。アメリカなりの記念日が色々あるにはあるが、どれを取って見てもどうも色合いが薄い。特に元旦の気の抜けようは日本の年末年始を知る者には寂しいものがある。サンクスギビング、クリスマスあたりが一番大きな祝日で、現地の人に取っては感慨深い日なのかもしれないが、傍目には買い物の為に盛り上がっているとしか思えない。覚めた目で見てしまうそういった行事の中で建国記念日で打ち上げる花火だけは、自分としてはそれなりに内面に届くものがある。除夜の鐘の音が耳に届く時の感覚と同じような感覚を、大輪の光の華を視覚に受け取る時、感じる。あれから又一年が経った、という感慨である。打ち上げが始まるまでは、アメリカ的と言えるのかどうかロックバンドがキンキンに唸り立てる。広場に設えた演奏の為の高台を前に、折り畳み椅子やらビニールシートやら持ち込み、食べたり踊ったり寝転んだりの好き勝手状態だが、始まる頃になると様相が変わってくる。起立して国歌斉唱。それからカウントダウン。打ち上げの破裂音が続け様に鳴り響き、夜空に次々と大輪の華が咲く。色とりどりの灯に浮かび上がる神妙な顔々が天を向く。花火は本来切ないものだ。開いた華が見事であればあるほど瞬時に消え行く様は悲しい。儚いものに対すると憐みの情が湧く。花火には人工的光にはない、ろうそくの灯に見る温かみが届く。が、それが一瞬であるだけに命あるものの儚さを覚える。そういった感傷はアメリカ的ではないのだろう。その感情の入り込む隙を見せまいと、続け様に打ち上げる。幾重にも打ち上げられた見事な花火、硝煙が立ち込めその視界を遮ろうともお構いなしだ。何とも風情のないやり方ではあるが、そう思いながらもケチることを良しとしないおもいっきりの良さも感じられて心地よい。半時間を超えて最後の最後ともなると、殆ど闇雲に連打して打ち上げ、煙にまみれながらも破裂音の連打が腹の底に響き続ける。そして唐突に静寂が訪れる。あれほどに賑やかしていた群れが、嘘のように無口になって帰り支度を始める。この一連の流れが祭り気分と祭りの後の寂しさを味わわせてくれる。今年もJULY4TH がやって来る。

2008年6月18日水曜日

因縁

我々の在り方を一言で言うと、自己否定だった。対社会的な教育なり訓練を受けたことは無いしそういった向上心やら全てを、否定して否定してある期間を通過した。その結果、自分も含めて多くの場合、実力に欠ける存在、この世では勤まらない弱者であり負け組みだった。どんなに否定しても我々の中に卑屈な想いが無いかというと、心の奥にそういった自分に対する蔑みがあった。罪に対する意識と自分は駄目な存在だという卑屈な想いとは違うものだ。キリスト教の基盤が薄い日本は人間性を無視するような態度を相手に対して取る場合があり、特に上下関係に於いてそれが見られる。我々の組織に於いても軍隊生活かと思うような虫けらのような扱いや言動が当然のようにまかり通る。それは少し違うでしょうという思いがあったがそこを通過することでしか祝福にありつけなかった。そこを通過することで得るものも勿論あるが犠牲にするものも決して少なくは無い。内外の実力をつけるという面に於いても犠牲が伴うが、それ以上に、関わる兄弟の信仰生命を断ち切りかねない。受けた痛みに対して恨みを残す。悲しいかな離れざるを得なかったり、辛うじて踏みとどまっても深層に押し込められた恨みが将来的に自分に影を落としたり家庭で破裂したりする。多かれ少なかれトラウマとして尾を引く場合が結構見られる。早くに渡米して歩んでいる兄弟と日本で厳しい路程を通過した兄弟とは在り様が違う。個人差もあるが日本の組織活動華々し頃の傷跡を多くの兄弟に見て取れる。敢えて言うなら自閉症的様相を帯びる。恐らく自己否定とアベルカインの意味の取り違えから起こる中心者の兄弟に対する対応が問題だったと思うが、敢えてそういう環境にならざるを得なかった摂理の要求があってのことであり、当時の責任者を悪者と断罪することはできない。責任者自身もまたそういう環境の中で鬼にならざるを得なかった犠牲を自分に強いている。様々な恨み辛みを御焚き上げして内面の大掃除は果たされたのであり、後天開闢の夜明けと共にクリーンアップされた内面に合わせて生活面、仕事面、全ての活動面に対する整理整頓が必要である。外的事柄全てに過去の因縁が染み付いている。本来ならもっと早くに為されて然るべきものを、携わる者が完全に目覚めておらないため、過去にしがみ付く亡霊が徘徊する。

2008年6月16日月曜日

プレゼント

昨日は父の日だった。子供からは何も無いがワイフがプレゼントしてくれた。気合を入れて焼いてくれたチーズケーキ、先回、お食事用のデザートにと試行錯誤しながら行き着いたコーヒーゼリー(先回は流れたのでお口にして頂けはしなかったが、、、)、そして筆記具。小さい頃、父が浜田まで出かけ子供の土産にボールペンをそれぞれ買ってきてくれたことがあった。紙袋を開けた時、目に飛び込んできた鮮やかな水色が心に焼きついている。今にすれば安っぽいものだが、万年筆に似せたそれは小さい自分をおとなにしてくれるような光を放っていた。キャップを外しては少し書き、引き出しに片付けては又出し、の繰り返しで数日をワクワクしながら送った。妹や弟は一日遊んでそこらへんに投げ出していたが、自分には大切な宝物だった。ワイフから、父の日だからと小さい包みを渡され開けたとき、子供の頃のその思い出が蘇った。手にしたときの心躍る様がありありと蘇った。贈り物には不思議な力がある。与える当人の想いが宿っていて見えないその想いが見える形となって手に届く。与える想いに触発されて、日頃は他愛も無いことで二言三言口にするようであっても、妙に切なく思えたり愛おしく思えたりしてくる。先ほど口にしたことに負債を覚えたりしてくる。私達は多くを受け取りながら生を繋いでいく。誰の世話にもならずひとり強く生きているような錯覚を覚えるが、実のところ親や家族をはじめ多くの人々の想いを受けながら生かされている。そこに神様はそういった人々を通して働いておられるし愛を届ける。だからそういった人々に対する感謝の想いが、つまるところ神様に届く。自然から光を受け、空気を吸い水と食物を与えられて生きているようであるが、本当は光や受ける全てを通して、この身を想うてくれる愛を食べながら生を繋いでいる。

2008年6月12日木曜日

知識

今の世は情報過多で、莫大な量の知識が行き交い、パソコン画面を通していくらでも入手できる。知識をどれほど手に入れ自分の頭に詰め込もうとも、それだけでは何の役にも立たない。知識の量が問題なのではなく知識を活用できるエンジンが問題となる。知識を一方的に受け続ける状態から、それらから知恵を働かせ新しい事柄を創造する、即ち受動的状態から能動的状態に踏み込むことで、人間として活き活きとした歩みを為せる。与えること、為に生きること、働きかけること、そうした事柄と創造することとは同意である。常に自分を起点として与えることに飢えている者は与える新しい事柄を発見する。与える新しい事柄を創造する。与えれれば与えるほどに、与えた以上のものが自分の中に流れ込んでくる。宇宙の法則はそうなっている。大なり小なり過去のどんな発見もどんな創造も、本人が能動的モードに自分を差し出す時、ある意味寝食を忘れ働きかけることに酔う時、自分を忘れる即ち自分を犠牲にする時に偉大な発見、創造は為されてきた。無機質な知識をどれほどむさぼっても知識という形骸を取り入れているに過ぎない。知識や情報の実を取り込もうとするなら、闇雲に拾い続けるのではなくそれが自分に或いは隣の人に社会に世界にどう働きかけ、どういう意味があるのかどう使えるのか、そういった見えないものを見ようとするときその知識は生きて自分に語りかけ働きかける。生きた知識の色合いが見え感情が含まれるようになると創造の世界が開けてくる。

2008年6月9日月曜日

侍ることについて

自分は生かされており護られ導かれている。多くの感謝すべき内容に溢れている。しかし我々が本当に感謝すべきことは御父母様に侍ることが出来るというその一点に尽きる。逆にその想いが無いのならばこの道に籍を置く意味は無い。普通のクリスチャンで十分為し得る。個人的な問題や課題を解決することが重要なのではない。家庭的問題をなくせば済む、或いは二世がそれなりの信仰を維持し祝福を受けてくれればそれで事足りる、そういう問題ではない。勿論そういったことに対して厳しく願われるのも事実であるけれど、その想いに執着することと御父母様に侍ることとは違う。少なくとも自分の中では明らかに異質のものだ。自分の中に御父母様に対する想いがあるか、侍るという一心の想いというか意思があるか。この身を賭してでもお役に立ちたいという切実な想いに溢れているか。罵られ足蹴にされてもそれでも付いて行きたいという想いがあるか。御父母様の為に苦労できることが何よりも感謝だという想いがあるか。そういった魂こそ自分であると感じられ認識できる時、自分は御父母様と共にいる。御父母様の涙に自分自身は溢れ、御父母様の血で滾る。侍るという存在が衣服を纏っている、そこまで自分の魂を高めるべきだ。

2008年6月8日日曜日

苦労の意味

自分の置かれている環境を誰かのせいにすることはできる。他人の置かれている環境を羨むこともできる。しかしそれで自分に得するものは何も無いことは誰もがわかっている。意識を他人に被せたところで実感の伴わない幻想に自分を置く。それは幽霊でしかない。人に学ぶ事と人を羨む事とは全く異なる。前者は目標を捕らえた意志であり後者は目標を喪失した自分に対する蔑みである。人は人であり自分は自分、とよく言うがその通りだと思う。自分の悲痛な境遇を嘆くことも時にはあるだろう。しかしそれに没頭することを自分の本心は良しとしない。その嘆きから何を学ぼうとしているのかを問い、その嘆きから抽出される結晶こそ、外的な快感や喜びとは次元のことなる霊界精神界に留まる宝と言える。人生は苦労の連続だと言い切っても言い過ぎだとは思わない。人生は内外の苦労に彩られている。苦難の一つ一つの路程に揉まれる過程で自分が光を放つ存在となる為の磨き粉の役目がそこにある。自分の本質は苦労を経験し味わうためにこの地上界に生を得た。苦労することを欲して生を受けたと言うこと。苦労を重ねるごとに愛すること為に生きることのすばらしさに目覚め、自分の眠っていた本質が目覚め研ぎ澄まされることを学ぶ。自分がこの世的快楽や悦びの中に浸ろうとするなら肉の塊という存在に限りなく近づくのであり、自分が苦労の只中にあると認識しそれを甘受しているなら限りなく天に近くなる。

2008年6月6日金曜日

今日一日の色合い

今日と言う真新しい一日をどういう思いで受け取るか。変わりない環境と変わりない生活。昨日までの問題が今日も厳然と横たわり、何の解決策も見えない。ため息をつき目を逸らし続ける。自分の中に悶々とした想いを溜め込みながら、何ら変わらない一日をまた遣り過ごす。見えない縛りに五感がかけられ、見てはならないものを見せられ、聞いてはならないものを聞かされ、触れてはならないものに意識を釘付けされている。人により同じものを見ても受け取るものは違う。映り込むものは人によって違う。そこに疑問を持つべきだ。自分の五感を通して入ってくる情報に自分が惑わされていることに気付かない。自分の内面に届く印象全てが自分の感情の色で表されている。否定的な色合いで届いた印象は自分自身を否定的な色に塗り替える。そこに気付くものは少ない。しかしそこに気付いたものは変わる。確実に変わる。自分の夢を見出したもの、自分の夢を実現したもの、彼らはチャンスを毎日の受け取る印象の中に見出した者であり、また見出し続ける者達だ。多くの者が受け取る印象に何の新しいものも見出せず否定的想いに曇らせるが、彼らはそこに夢への道のりを見ている。人は夢を持ってこそ活きる。夢をもってこそ本当の目が開ける。自分の環境を夢の実現の為の道具とする。一日一日が夢実現の為の一里塚となる。悶々とした惰性の一日など一つとしてない。仕事を探しにくる者に大きく分けて二通りある。生活の為に働きたいという者と将来の夢を持ち実現の一つの手段、一つの段階として働きたいという者。成長の度合いが格段に違う。内面に受け取る印象の色合いが違う。今日一日の色合いが違う。活き活きとした色合いで内面が満たされている。

2008年6月4日水曜日

目を覚ますこと

自分と同年代で70年代80年代前半に復帰され、献身を決意して今に至る食口達は、ある意味燃え尽き症候群と言える。それも相当重症でもはや灰カス状態にある。日本では万物復帰に明け暮れてきた。愛に動かされてと言うより、使命に燃えて歩んできた。信仰というよりは運動に殉じてきた。我々が受けてきた訓練は技術を学ぶとか頭を使うだとか人心を掴むための内面を成長させるだとか、そういうビジネス感性に必要な訓練とは違った。この世で自分として生きる為の事柄とは無縁の世界で歩んできた。いろんな思いを廻らす、疑問を持つ、思考する、それは人間性に関することであるけれどそれさえも否定すべきものとして植えつけられ、人間以下の立場で歩んできた。余程の単純細胞の持ち主か余程の信仰者しか残らない。そういう時期が必要であった事はその通りだが、次の段階の教育なり訓練が蔑ろにされていたことは認めるべきだと思う。その辺の道路に立って金をせびるホームレスと、内外の実力という面に於いては何ら変わりは無い。ビジネスに関わりながら金の意味すら解らずに携わる。自分で稼いで来たという感覚すらないのに、それを宛がえる方が間違っている。自分で築いてきた感覚が一つとしてあるだろうか。職場を与えられ食事を与えられ、住まいを与えられ小遣いを与えられ、そして妻も与えられて家庭らしきものも与えられる。一つ間違えると人生の飼い殺し状態にある。そんな状態でお父様を連呼して喜ばれるだろうか。そんな者が集まる群れを神様は願ったのだろうか。表面的には父母様と共に苦労してきた格好だけは付けたが、自分を貶める事に慣れそこに隠れ続けて来ただけの事ではないのか。新しい時代圏で兄弟は羽ばたくべきである。押さえつけてきた自我を認識し新しい意識に目覚め、それぞれが神様に問うて自分の本来の願いを受け止め大きく羽ばたくべきである。

2008年6月3日火曜日

性を考える

地上世界の生きとし生けるもの全て、形は崩れやがては消える。それは人間の肉体にしても同じ事でいつかはこの世を去る宿命にある。陰陽でこの世界は創造されているように、この世には男と女が存在する。男女が交わることで朽ちる肉体の限界を超え、生存を繋いできた。繁殖をもって種の継続を為していくためには性を抜きにすることは出来ない。動物であれば本能という種族意識の定められた原理に従うのみであるが、自我を得た精神の働きを持つ人間は本能に没頭するのみを善しとしない。人間を動物の一種であり、それ以上でもなくそれ以下でもないと信じる者は性を本能の一つと無理やり片付けてしまう。が、そう割り切れるものではない。普通の人間であれば愛との関係性の中での性の位置づけをする。青少年問題そして男女関係を含めた性の問題は人類の大きなテーマとしてずっと今までそして今も解決されずにいる。愛があってその上で性があるのであり、性ありきで愛が伴うとか性と愛を同レベルで扱うということは出来ない。生きる為に食べるのであり食べる為に生きるのではないように、愛のある家庭を築く為に性が関わるのであり性の為に家庭があるのではない。そういう意味では同棲と結婚ははっきり区別されるべきものだ。性は確かに愛の表現形態でもあるが、愛と性は直接の関係を持たない。人間は食事に於いても肉体的本能的要求に応えるのみならず精神性を要求する。口のみを使い床にばら撒かれた食物を採るようにと指示されれば、誰も従わないだろう。それは自分が野獣だと認めることを意味する。食器を使わず両手でガツガツ食べればそれは、本能に忠実な採り方と言える。しかしこれも人間として拒否すると思う。食事に伴う本能である食欲を主管しながら、作法を重んじ美意識に照らし、食事を芸術の領域さらに精神的領域に高めようとする。性の営みもそのようであって、種族意識の本能に没頭する動物的在り様から神様をも巻き込む霊的精神的領域まで高めようとする意識こそ性に対する本来の在り方だと思う。性は愛との関係性(それが偽りの愛であっても)で、最も悪用され最も触れずに置かれた領域であったが、本来は最も神秘的宗教的な聖なる営みである。

2008年6月2日月曜日

ひかり

ひんやりした朝の大気を心地よく受けながら今日の一日が始まる。届いた柔らかな光が木々の緑に揺れ遊ぶ。受け取る光で命を育みそれぞれの生の意味を精一杯生きる。大気は青を濃くするほどに光に満たされ濃縮され、余りあるほどにそれぞれが受け取れるよう配慮される。母親が乳飲み子に乳房を含ませ成長を祈るように、生命の背後にある親なる方の祈りを見届ける。それぞれにそれぞれの形で愛おしい想いが宿っている。活き活きとしたその想いを見る事なしに、自然の恵みを受け取ることは罪となる。光を見る時、愛の姿をそこに見る。溢れる光を受けながらも、ひたすら与えようとされる神様の想いを受け取るに至らないなら、親としての悲しみはいかばかりか。その悲しさ寂しさも届く光に含まれている。思い悩む前に、生かされている自分、その自分に届く想いに耳を傾ける。光の通説概念をはずし、届く愛としての光を認識し、届ける方の想いに心を傾け、それから自分の思い悩みを問うてみる。愛されていることの実感を持つことが出来れば、それに向き合う思いも変わってくる。日常の全ての当たり前のことが、深い深い愛に裏付けられている。今日の一日を、受け取る全てを感謝に変えて届ければ、少しでも喜んでもらえるだろうか。

血統を考える

自分の内面を観察すれば、あまりにもおぞましい血の在り様が連綿と受け継がれて来たのを見ることが出来る。さほど霊的感性は開けていないので鮮明に見聞きすることは出来ないが、それほどの感性が備わっていれば常人であることは出来ないだろう。大母様が、我々の身体に蟻の卵のようにびっしりと霊が付いている、という表現をされるが、その一つ一つの霊の念に魂は影響を受けて自分の在り様を呈する。たとえみ言葉をことごとく理解して人間本来の在り様に近づこうとしても、霊達の念で築かれた霊の身体とその外的表示体である肉の身体は、そのしがみ付いた霊の想いの世界から逃れることは出来ず身動きは取れない。その中に一点の光の種が投げ込まれた意味が祝福を頂いたことの意味である。自分の血の在り様には何代先祖を遡っても見出せない光の要素、真の愛の要素をその種としていただいた意味がそこにある。であれば、私という存在は連綿として受け継がれてきた悪魔的堕落の血統の結実であると同時に、終着点である。そして頂いた祝福の種を起点として生まれた祝福二世は、真の父母の真の愛にその起源を置く血の在り様をしている。み言葉の理解も貧しく、信仰も侍る姿勢も薄い我々であり、そして祝福の価値も本当の意味で解っているものは少ない。それでありながらこと二世の祝福となると、命に代えてでも受けさせようという強い想い真剣な想いは、自分から来るものではなく天から来るものであることは明らかだ。ある意味、自分の二世に対する想いは天の二世に対する想いである。

2008年6月1日日曜日

自分を主管する

この世はあの世の象徴的現れに過ぎない。霊界の感覚の広がり深さは、この世の五感とそれに付随するものに比べられるものではない。自我に相対する対象を主管し、それから新しいものを創造し、それを提供する(与える)ことが自我として分化した者の本質だ。その為のあらゆる感性を人間は備えている。他の為に生きるという人間の本質の為にその感性は使われる。五感以上の眠っている感性を掘り起こして精細な観察が可能になると、より霊化した創造性が発揮される。今、我々が接する地上世界は特別の者を除いて霊的な要素を防ぐ形で五感を通され、受け取る。主管力を失った人類は、直接的に霊の要素を受け取ると、その次元の違い、そして善の要素以上に悪の要素を受け取るため悪の人格が際立つか発狂する。それゆえある意味、霊的なものが覆われた世界で護られてきたとも言える。しかし時代は宇宙的変革期を迎えている。徐々にではあるが確実に霊に対する覆いが一枚一枚と取り除かれている。善の主権が確立され善の霊的要素が大幅に悪のそれを上回ってきた。その霊的な過渡期の感覚を全身に覚える。どこに行こうともその場が善の場か悪の場か、そして誰に接しようとも対する人が善神に仕えた者か悪神に仕えた者か如実に見通せるようになる。日常の外的世界に埋没していると外的な事柄が全てのような感覚で日々を送っているが、それは本質的霊的に見るなら影のようなものだ。一日を終えて休む前に静寂の中で一日を思い起こして見る。朝からの出来事を時間に沿って追うのではなく、逆に時間を遡りながら過去に向けて追っていく。そうすることで外的な事柄は薄れ、経験として受け取ったもの得たものが浮き出てくる。五感で受け取ったものが自分の感情で表現された色合いを帯びてくる。それを通して外的な事柄の背後にある本質に届くようになる。夜、床に付く前に瞑想の時を持つ。内面の観察に没頭すると本心の願いである祈りを見出せるようになる。本心の祈りを聞いてそれに標準をあわせる事で初めて、霊的に活きた歩みを為せる。

田舎の影

故郷に対する暗いイメージは今の今も消えない。それは、どんな真昼の燦燦と輝く太陽の下の思い出であっても、暗い感覚は変わらない。故郷に赴き、その地に足を下ろしたとたん、ジワリジワリと内側が侵食される感覚を覚える。いろんな所に居を置いて来た。二十数万の生命が数日の内に絶えてしまった広島市の中心に住んだ事もあるし、人殺しのあった家に数年住んだ事もある。しかしそういう場所とは違う嫌悪感を生まれ育った田舎に感じる。それはどうも人の念に関わるものとは違うような気がする。今の今まで、その正体を見ることが出来ずに来た。数年前、僧侶の大叔父からノート大の本が届いた。それには大叔父の歩んできた人生の流れやら、九十を越す今でこそ語る妻との出会いやら、親戚縁者のことやらが語られている、云わば自伝だ。叔母さんは(自分はそう呼んでいた)、大叔父とは一回りも違う連れ合いではあるけれど、八十に近い老人には違いない。その表現には二十に満たない可憐な女性を想い見る様に描かれていて、経を口にする印象しか残っていない大叔父の意外な面に触れたようで戸惑いもした。しかし自分を引き付けたのは大叔父の幼少の頃、即ち自分の祖父と大叔父の母方になる訳だが、その実家で起こった出来事についての記述に及んだ時だ。そう遠くない代を遡った場で、家族間の殺人事件が起きている。もし親戚がこのブログを目にすると厄介なので詳細には触れないが、自分の祖父の祖父が太刀で手首を切り落とされ翌日に死亡、加害者は直接ではないが縁者に当たり、その妻が死亡、その他数人の親戚が重症を負っている。手首から噴出す鮮血を桶で受けながらことつきたらしい。その時の詳細をありありと描いている。その記述を追いながら、背後が寒くなるのを感じた。自分の代から数代遡れば先祖の中にもいろんな人物がいることは想像できる。触れたくない様々な事柄が事実として存在する。自分はそれらと無関係でいられるとは思わない。後孫は先祖からの様々な念を血の中に受け継いで今に至っている。しかし自分に迫り来ていたものはそれとは違うそういった人生の在り様を為さしめる何かが自分に襲い、その地に暗い影を常に落としている。それに身を任せたら、底の底まで引き摺り下ろされ、精神を病む。その正体が未だに掴めない。