2008年6月3日火曜日
性を考える
地上世界の生きとし生けるもの全て、形は崩れやがては消える。それは人間の肉体にしても同じ事でいつかはこの世を去る宿命にある。陰陽でこの世界は創造されているように、この世には男と女が存在する。男女が交わることで朽ちる肉体の限界を超え、生存を繋いできた。繁殖をもって種の継続を為していくためには性を抜きにすることは出来ない。動物であれば本能という種族意識の定められた原理に従うのみであるが、自我を得た精神の働きを持つ人間は本能に没頭するのみを善しとしない。人間を動物の一種であり、それ以上でもなくそれ以下でもないと信じる者は性を本能の一つと無理やり片付けてしまう。が、そう割り切れるものではない。普通の人間であれば愛との関係性の中での性の位置づけをする。青少年問題そして男女関係を含めた性の問題は人類の大きなテーマとしてずっと今までそして今も解決されずにいる。愛があってその上で性があるのであり、性ありきで愛が伴うとか性と愛を同レベルで扱うということは出来ない。生きる為に食べるのであり食べる為に生きるのではないように、愛のある家庭を築く為に性が関わるのであり性の為に家庭があるのではない。そういう意味では同棲と結婚ははっきり区別されるべきものだ。性は確かに愛の表現形態でもあるが、愛と性は直接の関係を持たない。人間は食事に於いても肉体的本能的要求に応えるのみならず精神性を要求する。口のみを使い床にばら撒かれた食物を採るようにと指示されれば、誰も従わないだろう。それは自分が野獣だと認めることを意味する。食器を使わず両手でガツガツ食べればそれは、本能に忠実な採り方と言える。しかしこれも人間として拒否すると思う。食事に伴う本能である食欲を主管しながら、作法を重んじ美意識に照らし、食事を芸術の領域さらに精神的領域に高めようとする。性の営みもそのようであって、種族意識の本能に没頭する動物的在り様から神様をも巻き込む霊的精神的領域まで高めようとする意識こそ性に対する本来の在り方だと思う。性は愛との関係性(それが偽りの愛であっても)で、最も悪用され最も触れずに置かれた領域であったが、本来は最も神秘的宗教的な聖なる営みである。
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