自分の置かれている環境を誰かのせいにすることはできる。他人の置かれている環境を羨むこともできる。しかしそれで自分に得するものは何も無いことは誰もがわかっている。意識を他人に被せたところで実感の伴わない幻想に自分を置く。それは幽霊でしかない。人に学ぶ事と人を羨む事とは全く異なる。前者は目標を捕らえた意志であり後者は目標を喪失した自分に対する蔑みである。人は人であり自分は自分、とよく言うがその通りだと思う。自分の悲痛な境遇を嘆くことも時にはあるだろう。しかしそれに没頭することを自分の本心は良しとしない。その嘆きから何を学ぼうとしているのかを問い、その嘆きから抽出される結晶こそ、外的な快感や喜びとは次元のことなる霊界精神界に留まる宝と言える。人生は苦労の連続だと言い切っても言い過ぎだとは思わない。人生は内外の苦労に彩られている。苦難の一つ一つの路程に揉まれる過程で自分が光を放つ存在となる為の磨き粉の役目がそこにある。自分の本質は苦労を経験し味わうためにこの地上界に生を得た。苦労することを欲して生を受けたと言うこと。苦労を重ねるごとに愛すること為に生きることのすばらしさに目覚め、自分の眠っていた本質が目覚め研ぎ澄まされることを学ぶ。自分がこの世的快楽や悦びの中に浸ろうとするなら肉の塊という存在に限りなく近づくのであり、自分が苦労の只中にあると認識しそれを甘受しているなら限りなく天に近くなる。
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