2008年6月2日月曜日

血統を考える

自分の内面を観察すれば、あまりにもおぞましい血の在り様が連綿と受け継がれて来たのを見ることが出来る。さほど霊的感性は開けていないので鮮明に見聞きすることは出来ないが、それほどの感性が備わっていれば常人であることは出来ないだろう。大母様が、我々の身体に蟻の卵のようにびっしりと霊が付いている、という表現をされるが、その一つ一つの霊の念に魂は影響を受けて自分の在り様を呈する。たとえみ言葉をことごとく理解して人間本来の在り様に近づこうとしても、霊達の念で築かれた霊の身体とその外的表示体である肉の身体は、そのしがみ付いた霊の想いの世界から逃れることは出来ず身動きは取れない。その中に一点の光の種が投げ込まれた意味が祝福を頂いたことの意味である。自分の血の在り様には何代先祖を遡っても見出せない光の要素、真の愛の要素をその種としていただいた意味がそこにある。であれば、私という存在は連綿として受け継がれてきた悪魔的堕落の血統の結実であると同時に、終着点である。そして頂いた祝福の種を起点として生まれた祝福二世は、真の父母の真の愛にその起源を置く血の在り様をしている。み言葉の理解も貧しく、信仰も侍る姿勢も薄い我々であり、そして祝福の価値も本当の意味で解っているものは少ない。それでありながらこと二世の祝福となると、命に代えてでも受けさせようという強い想い真剣な想いは、自分から来るものではなく天から来るものであることは明らかだ。ある意味、自分の二世に対する想いは天の二世に対する想いである。

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